ウィリアム征服王の部将たち
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ウィリアム征服王の部将たちは1066年ヘイスティングスの戦いにおいてウィリアム征服王と伴に戦い、また(北部領主の反乱から無政府時代までの時期以前に)ノルマン人によるイングランド征服を完成させた様々な地位や起源を持つ者たちであった。
”Companions of William the Conqueror”(ウィリアム征服王の部将たち)は広義にはそのようなノルマンディー公爵ウィリアムに協力してノルマン征服(1066-1071)という一大事業を企画・編成・参加した者たちを意味する。
他方で狭義の意味ではヘイスティングの戦いにおいて実際に征服王とともに戦った貴族と定義される。
先祖がヘイスティングスの戦いの参加者である名誉ある事実は、英国貴族の上流階級に正当性を付与するものであるためノルマン起源の古い家系ではその様な主張をするものが多い。だが、それらの主張の大部分は伝説にもとづいていて歴史的の検証による証明はできない。
確かに数多のノルマン人、ブルターニュ人、フランドル人、そして様々な階級の貴族達がヘイスティングスで公爵とともに戦った。
だが今日歴史的資料として申し分のないと考えられる資料に記録されている彼らの名前はたったの15名だけだ。これらは”確かな(Proven)”者たちで”恐らく(Likely)”や“多分(Probable)”とか”ありうる(Possible)”という者たちとは区別されている。
部将たちのリストや巻物と呼ばれるものは時代を超えて書かれ続けてきたが、申し分のない資料といえるのは下記の三点だけだ。
- 1071年から1077年の間に書かれたウィリアム・オブ・ポワトゥーにより著された「ノルマンディー公爵ギョーム二世の事績」(Gesta Guilelmi II Ducis Normannorum)
ウィリアムは1020年頃にポン-オードメル近郊のラ・プレオーに生まれ、兵士として従軍したのちポワティエで学んだ。
ウィリアム公爵の従軍司祭とリジウーの助祭長となるためノルマンディーへ戻り、1090年に死亡した。
彼の作品は(ウィリアム)公爵を称える一代記である。初期の部分と結びの部分は失われているが、現存する部分はイングランドでの出来事に関しては信頼できないけれども1047年から1068年の期間を網羅して公爵の人生の詳細を記述している。そこにはノルマン征服の準備とヘイスティングスの戦い、そしてその余波について詳細な描写が行われている。この作品はオーデリック・ヴィタリスの著述の基となった。
- オーデリック・ヴィタリスにより著された「教会の歴史」(Historia Ecclesiastica)、その特に4巻と5巻。
オーデリックは1075年頃イングランドにてノルマン人司祭の子として生まれ、11歳の時ノルマンディーのサン-エヴルー-シュル-ウシュ修道院の見習い修道士となった。
彼は修道院の歴史を記述する役目に任じられ、1110年にその大事業に着手し、その仕事は1142年に死去するまで続けられた。
- ノルマン征服を絵柄で表現したバイユータペストリー。これは恐らく11世紀の征服事業直後にノルマンディーのバイユーで作成された。
ウィリアム征服王の部将たちの一覧
この一覧は1~15が前節に記載の三資料による、ヘイスティングスの戦いの参加者で”確かな(Proven)”人物、16以降はその後の研究者により追加された人物である。
ウァダー
Wadard. Believed to be a follower of the Bishop of Bayeux
バイタル
Vital. Believed to be a follower of the Bishop of Bayeux
オフェ卿
グーバート・ドーフェ
Goubert d’Auffay, seigneur of Auffay
ハンフリー・オブ・ティアール-エン-オージュ
Humphrey of Tilleul-en-Auge