クータンス司教ジョフリー・ド・モウブレー

Geoffrey de Montbray(Montbrai, Mowbray) , bishop of Coutances (? - 1093)

ジョフリー・ド・モウブレーは征服王の信頼厚い側近で偉大な世俗高位聖職者、戦士、行政官であった。

ジョフリーはその名からも察せられるようにかってのノルマンディー公国領バス-ノルマンディー地方サン-ロー小郡モンブレの出身である。

司教職

1049年彼は兄のマルガーの運動(買収工作?)によりクータンス司教の座を獲得し、1049/3/12ルーアンにて(恐らく)当時のルーアン大司教モーガーにより聖体拝領の儀式を行った。

のちにランス評議員会においてジョフリーは聖職売買、つまり司教職を金で買った、と非難された。巧みな防御で彼は(彼の)兄が彼のために司教職を買ったことなど知らなかったと主張し、真摯な信仰の誓いを立てることを条件に司教区の維持が許された。

ジョフリーの司教選出は不正規なものであったが、彼は自分の新しい司教区が酷い状態であることを知った。 コタンタン教会は前世紀のヴァイキングにより破壊されたままであり、教区には頑固な異教徒と僅かな参事会員が残っていたが、書籍も聖書も装飾もなかった。

ジョフリーは司教となるまでの長い間、司教区から離れたルーアンやサン-ローに居住しており司教区の復旧を達成することは困難だった。

以前の聖職者たちが守り通してきた遺物であるかっての司教、聖ローと聖ランファーリスの遺体は臨時の大聖堂として初代ノルマンディー公ロロからセオドリック・オブ・クタンス司教に与えられたルーアンのサン-ソーブル教会に保管されていた。

ノルマン征服以降

「戦う司教」であるバイユー司教オド同様、ノルマン人たちを勝利に向かって鼓舞するためジョフリーもヘイスティングスに来ていた。

征服王ウィリアムの戴冠式の告示は、イングランドではヨーク大司教アルドレッドがイングランド人に向けて行い、フランスではクタンス司教ジョフリーがこれを行った。彼はイングランドの12の州に散在する広大な領地を褒賞として受け取った。
1067年ジョフリーは征服王に同行してノルマンディーに帰還した。

だが彼は1069年晩夏に発生したイングランドの反乱の鎮圧を指揮するため、同年イングランドへ戻ることとなった。

1069年の九月、ウィリアム王はマーシアやノーサンブリアの蜂起に対して北方へ遠征。一方、ジョフリーはロンドン・ウィンチェスター・ソールズベリーで募兵し、反乱者が籠城するモンタキュート城へ進撃した。

1075年ジョフリーは伯爵たちの反乱を鎮圧するためオド司教の指揮下の大軍の一部として再び戦場にあり、謀反人ノーフォーク伯爵ラルフ・ド・ゲールが奪いそのまま籠城しているノリッジ城へと向かった。

戦場での役割を求める一方、征服王はジョフリーに重要な司法機能も担当させていた。1072年ジョフリーはカンタベリー大司教とオド司教の間に発生したペネンデン・ヒースの審判を主宰し、同時にイリー修道院長とその略奪者たち、またウースター司教とイリー修道院長との係争の審判を主宰し、おそらくドームズディブックの編纂者として活動、さらにノーサンバーランドの統治を担当する地位にもついた。彼はまた、ウィンチェスター合意(カンタベリー大司教がヨーク大司教に優越することを確認)にも署名した。

征服王の死後、ジョフリーは1088年のウィリアム・ルーフス王に対する反乱に参加し、彼と関係が深く強固な城塞が築かれていたブリストルを根拠地とした。

ジョフリーはバスを焼き払いサマーセットを荒廃させたが、その年が終わる前までには王に服従していた。 彼は1090年の一月にドーヴァーでウィリアム・ルーフス王と会見したと考えられるが、ノルマンディーへ撤退して1093年にクタンスで死去した。

征服王の末子ヘンリー一世がコタンタンを手に入れた際、ロベール公爵への忠誠からジョフリーは領地を公爵へ差し出したようだ。

人物

オーデリック・ヴィタリスは、ド・モウブレーが高貴な生まれを鼻にかける人物で、聖職者としての能力よりも武勇の方が知られていたことを書き記した。

ジョフリーは書記たちに讃美歌斉唱を指導するよりも、戦闘で兵士たちに出撃準備をさせることの方を熟知していた。彼はウィリアム公爵時代の強固な貴族グループの中心人物だった。

ディヴィッド・C・ダグラスは二つのとても限定的で密接な家系の中に彼らの主要な子孫が見られる、と指摘している。

ジョフリーは極めて疑惑の残る状況下でその経歴を歩み始めた俗人司教であるが、それでもドーヴァー海峡の両岸において多くを成し遂げた慎重で実際的な司教であった。

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