ウィリアム二世の代にサリー伯爵を創設したノルマン人貴族。サセックスのレイプ(サセックス固有の地域区分でチチェスター・アランデル・ブランバー・ルイス・ペベンシー・ヘイスティングスと6分割されていた。各レイプはさらにハンドレッドという単位に分割される)・オブ・ルイスを含む多数の所領を有した。
ウィリアム・ド・ワレンヌは、現在はセーヌ-マリティーヌのベランコンブル小郡となっているノルマンディー公国のヴァレンヌ出身であった。その出自には諸説ある。
一つはラヌルフ一世・ド・ワレンヌとその最初の妻ベアトリス(彼女の母は恐らくノルマンディー公リシャール一世の公妃グンノールの姉妹)の間の子であるラヌルフ二世の子であるとする説。
またもう一つはクタンス司教ヒューとベアトリス(こちらではベアトリスが公妃グンノールの姪ということになっている)との間の子であるラヌルフ・ド・ワレンヌの子とする説。
いずれの説でも父ラヌルフには兄としてロジェ(ロジャー)・ド・モルティメールがいる。このロジェ・ド・モルティメールの渾名が"filius Episcopi(司教の息子)"であることは後者の説を補強することとなるだろうか。
出自については諸説あるが共通して見られるのは公妃グンノールの閨閥に繋がりのあることを認めている点か。
父ラヌルフの所領は乏しく、ウィリアム・ド・ワレンヌは次男であったことからその僅かばかり父の所領を相続できる見込みもなかった。
1052-54年の反乱の間にウィリアム・ド・ワレンヌは公爵の忠実な家臣であることを証明し、彼の伯父ロジャーから没収されたモルティメール城とその周辺の土地の大部分を含む所領を与えられた。
ウィリアム・ド・ワレンヌの伯父”司教の息子”ロジャーは、モルティメールの戦いでポンテュー伯ガイを捕虜にするなどの功績を挙げモルティメール城周辺の土地を褒美として与えられ、姓も所領から採ったものに改めた。
しかしロジャーによる領有は短期間で終わりを告げた。それはウィリアム公に対するロジャーの背信行為が明らかになったためだった。ロジャーの義理の父アミアン伯爵”偉大な”ラルフ三世はモルティメールの戦いにおけるフランス軍指揮官の一人だったが、戦後ロジャーは義父ラルフ三世を安全に領地へ帰ることが出来る様になるまで三日間に渡ってモルティメール城に匿った。
この背信行為対してウィリアム公爵はロジャーの財産を没収しノルマンディーから追放した。没収した所領はロジャーの甥ウィリアム・ド・ワレンヌに与えられた。
ウィリアム・ド・ワレンヌはハロルド二世のイングランド王位継承に反対する決断が為された際に、諮問のため公爵に召喚されたノルマン領主の一人であった。ウィリアムはヘイスティングスの戦いで戦闘に参加し、多大な所領を与えられた。
ドームズディブックの記録によると彼の所領は十三もの州に渡って広がり、それはサセックスの重要なレイプ(上記参照)やノーフォーク・サフォーク・エセックスのいくつかの荘園、ヨークシャーの重要なコニスバラ荘、そして彼の居城となるノーフォークのエーカー城を含んでいた。
ウィリアムは”ウィリアム征服王の部将たち”(The Companions of William the Conqueror)として知られる、ヘイスティングスの戦いの参戦者の中でも確実な史料上で名前が明らかにされている一人である。
ウィリアムは1071年のイーリー島の反乱軍(ヘリワード・ザ・ウェイクの反乱)と戦い、前年にウィリアムの義兄フレドリックを殺害したヘリワード・ザ・ウェイクを追い詰めるために特別な情熱を注いだ。ヘリワードは弓射でウィリアムを落馬させたことになっている。
1078年から1082年にかけて度々ウィリアムとその妻グンドレッドは道中の寺院を訪ねながらローマへ旅行した。バーガンディ(ブルゴーニュ)で彼ら夫婦は神聖ローマ皇帝ハインリッヒ四世と教皇グレゴリウス七世の戦争によりそれ以上進めなくなった。
夫妻はクリュニュー修道院を訪れ、修道士と彼らの献身に感銘を受けた。ウィリアムとグンドレッドはイングランドの彼らの領地にクリュニュー派修道院を設立することを決心した。
ウィリアムは修道院のために建物を再建し、クリュニュー修道院長ヒューにイングランドの彼らの領地への修道士の派遣を要請した。
当初ヒュー修道院長は乗り気でなかったが、最終的に初代修道院長となるラズロを含む数名の修道士を派遣した。
この修道院がイングランドで最初のクリュニュー派小修道院である聖パンクラスに仕えるルイス小修道院である。
ウィリアムは最初、1070年までにグンドレッド(初代チェスター伯爵”フランドル人”ジャーボッド・フレドリック・オブ・オーステルレーゼ-スケルデウェインデーケの妹)と結婚した。彼女との間に、以下の子を成した: