ヒュー ド・グランメニル

Hugh de Grandmesnil (1032 - 1098/2/22)

ユーグまたはヒュー・ド・グランメニルは”ウィリアム征服王の部将たち”(The Companions of William the Conqueror)として知られる、ヘイスティングスの戦いの参戦者の中でも確実な史料上で名前が明らかにされている一人である。 その後、ヒューはイングランドの大領主となった。

ヒュー・ド・グランメニルはロベール一世・ド・グランメニルとアワイズ・ダショフールの長子であり、ロベール二世・ド・グランメニルはその弟である。

ウィリアム一世のイングランド征服の後、ヒューはその貢献により100(そのうち65はレスターシャーにあり)もの荘園を与えられ、レスターシャーの州長官とハンプシャーの代官に指名された。


グランメニル家

グランメニル一族

グランメニル一族の物語は11世紀中頃にノルマンディ中央部で始まる。その地で彼らは有名な軍用馬生産者であった。 グランメニル一族はウシュ平野に所有する一連の育成牧場からその財を築いた。しかし、ウィリアム公爵の勢力が弱体だった頃、ノルマンディーの安定は崩壊し始めていた。領主たちは他人の領域で略奪を働き古い怨恨が積み重なった。

1041年、ロジャー・ド・ボーモンがリスル渓谷の支配権を狙いロジャー・ド・トニーの領地へ野蛮な戦いを仕掛けた。ド・トニーは仲間のロベール・ド・グランメニルの加勢を得たが、六月、彼らの軍勢はボーモン一族の奇襲攻撃で粉砕された。野蛮な戦いの中でド・トニーと彼の二人の息子は命を落とした。

ロベール・ド・グランメニルはまだ幾分か健闘できた。ロベールは瀕死の重傷を負って戦場から搬送され、三週間後にその戦傷により命を落とした。

ロベールの二人の息子ロベールとヒューは父の資産を分割してロベールは聖職者となり、一方ヒューは父の戦士・領主としての地位を継いだ。

ヒュー・ド・グランメニルはノルマンディー公爵ウィリアムの宮廷で力を振るった。しかし、1058年公爵の被害妄想によりヒューは追放された。ヒューは五年間宮廷から遠ざけられた。1063年ヒューはヌフ-マルシェ-アン-ライオンズ城の主将として復活した。グランメニルの運勢は上昇し続け、1066年ヒューはイングランド侵攻における騎兵部隊指揮官となった。

ヘイスティングスの戦いにおける有名なヒュー・ド・グランメニルのほとんど厄介な結末となった逸話がある。 熾烈な戦闘が始まり、騎兵突撃中にヒューの乗馬が藪を飛び越えるとその手綱が切れてしまった。ヒューは鞍の上に直立を保つのがやっとの状態で、制御不能となった馬は完全に単騎の状態でイングランド人の隊列に向かってヒューを運んでゆき、彼は狼狽した。

敵のサクソン人が大きな勝どきを挙げてヒューを殺すために飛び出してきたとき、まさに彼は死を覚悟した。ヒューの馬は恐怖で直ぐに逃げ出し反対方向へ突然駆け出した。その牡馬は無力な主人をイングランド人の隊列から引き離して味方の隊列の中に連れ戻した。

レスターの戦い

ヒューはイングランドにおけるウィリアム征服王の主要家臣の一人となっていた。 1067年国王がノルマンディー帰還のため不在になると、ウィリアム・フィッツオズバーンやオド司教と共にイングランドの統治に参加した。

ヒューはウィリアム王の子ロベール短袴公のために征服王との間の仲を取り持ち、休戦を成立させたノルマン貴族の一人だった。

イングランド征服の後、征服王はレスターを襲撃した。1068年町は嵐に襲われた。暴力の中でセント-マリー教会と都市の大部分は破壊された。征服王はレスターの統治をヒュー・ド・グランメニルに任せた。

征服王はまた、ヒューの奉仕に対して100もの荘園(うち65はレスターにあった)を与えた。 ヒューはレスターの州長官に指名され、ハンプシャーの代官を任された。

彼はボーモン-シュル-ラ-オワーズ伯爵イヴォの娘の麗人アデライザと結婚し、それによってヘレフォードシャーとウォリックシャーに三カ所の所領を得た。

アデライザの死

ヒューの妻アデライザは1087年にルーアンで死去し、サン-エヴルーの教会参事堂に埋葬された。夫妻は五人の息子と多くの娘たちを残した。それらの名は息子たちの方がロバート、ウィリアム、ヒュー、イヴォ、オーブリー、娘たちの方はアデリーン、アワイズ、ホエイ、マチルダ、アグネスである。

1087年にはウィリアム征服王も死去しており、グランメニル一族もノルマン人領主の大多数と同様、ウィリアム王の三人の息子たちの間で起こった内戦に巻き込まれていった。

この時、ノルマンディーとイングランドの国土は、ノルマンディー公となったロベール短袴公とイングランド王となったウィリアム・ルーフスという異なる二人の主を持つに至った。

王家の諍いは領主にとって就く側を選び損なうと身の破滅をもたらすものであり、これは揺れ動きはしたものの最終的にイングランド王に対して気紛れなノルマンディー公爵を支持する傾向のあったグランメニル家の運命でもあった。

ロベール公爵は後のヒューの苦闘で描かれる様に必ずしも公爵に忠誠を捧げた領主を支援するとは限らなかった。

晩年

1090年までヒュー・ド・グランメニルはまだノルマンディーの領地を守っていた。ロベール・ド・ベレーム(三代シュールズベリー伯爵)がキュルセ-シュル-ディーヴ城を包囲した際、ヒューは彼の友リシャール・ド・クルシと城に立て籠もった。

ベレームは軍をオルヌ川流域の土地に進軍させ、他の領主が戦闘に加わった。これが三週間にわたる1091年のカルヴァドス・クルシーの包囲戦へと発展した。

ロバート・ド・ベレームの兵力はクルシー城を降伏させるには不十分だった。ベレームは木製の攻城兵器、鐘楼ベルフライの構築を始めた。これは大きな攻城塔であった。”鐘楼”が押し出されてくる度、グランメニルは城から出撃して戦線の別の場所を攻撃した。”鐘楼”に割かれていた兵士はグランメニルの攻撃を撃退するために大急ぎで救援に向かわなければならなかった。

これらの小競り合いは頻繁に凄惨で血生臭いものとなった。ある時ヘンリー・ド・フェラーズ(レスターシャーの領主でダービー伯爵となった一族)の子ウィリアムとウィリアム・ド・ルピアがグランメニルの捕虜となり、身代金と引き換えに解放された。しかし立場が逆になってグランメニルの息子イヴォとリチャード・フィッツギルバート(・ド・クレア)が捕まると、イヴォは後に解放されたがド・クレアはベレームの地下牢で獄死した。

死の儀式が続き包囲は疲労の極に達した。クルシーの住民は城壁の外にパン焼き窯を作っており、それは大門と敵の”鐘楼”との中間にあった。そのため、クルシの男たちはパン焼き職人たちが仕事を続けられるように城から武装して出撃し、パン焼き窯を取り囲んだ。敵に食料を奪われないよう守るためだ。お互いにより大きな戦力を投入したためしばしば全面的な戦闘を誘発した。

ある時、グランメニルの攻撃の激しさにド・ベレームの兵士が散り散りになった。クルシー側は巨大攻城兵器まで到達しそれを焼き払った。しかし、この成功はノルマンディー公爵ロベールがド・ベレームの側について参戦したため長くは続かなかった。

ド・グランメニルとド・クルシーの籠る城は隅々まで敵勢で埋め尽くされていた。

ウィリアム・ルーフス王が兄公爵に対して武装した船団で到着すると、ロベール公爵とド・ベレームは兵を纏めて退却した。

最期

1094年ヒュー・ド・グランメニルは寄る年波で疲れ果ててイングランドに戻っていた。死期を悟った彼は当時の慣習に従い、修道士となり死の床に就いて六日後の1094/2/22、レスターにて死去した。彼の遺体は塩漬けにして牡牛の肉塊の中に縫いこめられ、ノルマンディーのウシュの渓谷へ二人の修道士により運ばれた。ヒューはサン-テヴルー修道院の教会参事堂南にロジャー修道院長によって修道院長の墓の傍に埋葬された。

子孫

ヒューの長子ロベール三世・ド・グランメニルはノルマンディーのウシュ渓谷にある領地を相続し、一方イヴォはレスターの州長官およびアール・シルトン荘の主となった。

1088年にウィリアム・ルーフス王に謀反した叔父のオド他大勢にとって、第一回十字軍はイングランド王の勘気を避ける良い方法に思われた。

これらの人々は戦場で武勇を示したが、その事実は後に流れた彼らがアンティオキアからの脱走兵だという噂とは矛盾する。

アンティオキア包囲戦の三日目、城壁での激しい戦いのあと、ウィリアム・グランメニルとその弟オーブリー、イヴォは未来のイングランド王の父となるブロワ伯ステファンおよび数名の騎士と示し合わせ、闇に紛れてロープを伝って城壁を降りた。彼らは徒歩で海岸まで逃れ、サン-シメオンの港からホスピタル騎士団所属の船で脱出した。法王庁はこの撤退は脱走であると言及したが、ブロワ伯とその家族の領地の最新の研究やシャンパーニュ年代記からの新発見(この逃走はとある宝物を防衛するための戦略的移動であったという言及)などの新たな証拠が見つかっている。

ウィリアム征服王の娘アデラと結婚したステファン伯はシャルトルへ地図と戦略的建築計画を持ち帰り、イングランドとフランスのノルマンゴシック建築革命に貢献した。

1102年、ブロワ伯ステファンはイエルサレムへ戻り、不当な恥辱の中戦死した。彼の従弟ヒュー・ド・パイヤンは翌年テンプル騎士団の最初の集団を結成した。

ヘンリー一世はロベール短袴公が不在の間(十字軍に参加)に素早く行動してイングランド王位を確保した。イヴォ・ド・グランメニルは、ノルマンディーの領地を相続した兄のロベールの影響によるものと考えられるが、ノルマンディー公爵に味方する派閥に合流した。戦端は直ぐに開かれた。

ロベール公爵は1101年にイングランドへ出航し、ウィンチェスター街道のオールトンで公爵の軍勢はヘンリー王と接敵した。速やかに和平交渉がなされ、ロベール公爵はイングランドの黄金を約束されてノルマンディーへ帰還した。不運にも公爵は味方を見捨ててゆき、”有名で不愉快な奴”ヘンリー王はグランメニルを含む彼の敵達を心に刻んだ。

レスターの州長官イヴォが宮廷に出仕するとそこは彼に対する侮辱と訴訟に溢れ返っており、(訴訟に対する)王の判決は遅らされた。国王の宮廷の取り巻き達はイヴォを道化のように扱い、廷臣たちは彼がアンティオキアから逃走したことに引っ掛けて”ロープ踊り”と面と向かって呼んだ。

彼の運勢は確実に傾いており、からかいに過剰反応した際には宮廷での騒乱による罰金刑を受けた。この状況から脱出するため、イヴォは神のために戦い彼の名誉回復を可能とする聖地への今一度の旅のための金策をするしかなかった。

イヴォは王と和解するためムーラン伯爵ロバート・ド・ボーモンに接触し、彼の聖地への遠征のため銀で500マルクの借金を申し込んだ。イヴォはこの借金の15年という期間の担保としてその全所領を差し入れた。

ド・ボーモンはまた、彼の弟ウォリック伯ヘンリーの娘をイヴォの息子でまだ幼少のヒンクリー男爵と結婚させ、この息子に父を継承させることとした。

この契約は誓約により確認され、国王により批准された。しかしイヴォがイエルサレムで死去し帰ってくることがなくなるとボーモンは誓約を破棄しレスター全体を支配下に置いた。イヴォの子供は立ち退かされ、結婚の約束も忘れられ、グランメニルの所領は彼自身のものとなった。手品でアールシルトン荘はロバート・ド・ボーモンの領地となり、ド・ボーモンは国王により初代レスター伯爵に叙爵された。

イヴォの子で継承者のヒンクリー男爵ヒュー・ド・グランメニルは結局レスターの荘園を回復することはできなかった。

最期の継承者ペトロネラは三代レスター伯爵ロバート・ド・ボーモンと結婚した。

ヒューの娘アデリーンはロジャー・ド・イヴリー(ロバート・ド・オワイリーの義兄弟)と結婚した。

ヒューの娘ロヘアはヒューの友人リシャール・ド・クルシーの子ロベール・ド・クルシーと結婚した。


ド・グランメニルの家族
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