タースティン・フィッツロルフはノルマン人の大貴族であり、”ウィリアム征服王の部将たち”(The Companions of William the Conqueror)として知られるヘイスティングスの戦いの参戦者として、確かな史料上で確認されている一人である。
タースティンの名(フィッツロルフ:ロルフの子、の意味)から、彼がロルフ(ノルマン-フレンチで一般的な表記のルーRouやラテン語表記のロロRolloと同義)の息子であること示している。
彼の名は当初トスティン、タースタン、その他の様々な表記で記録上に現れていた。
1170年頃にウェイスによって書かれた叙事詩「ルー物語」によれば、タースティンの出身地は、ノルマンディーのペイ-ド-コーのベック-ド-モルターニュとされている。
1086年のドームズディブックでは、未征服のウェールズ国境地帯(マーチ)の南端にあるカーリーアン城を、タースティンの騎士封所領として記録している。
タースティン・フィッツロルフは、サマーセットを中心として近隣州の複数の荘園を含んだ豊かな領地であるノース・キャドベリーの、最初の領主でもあった。
タースティンは12世紀の年代記作者オーデリック・ヴィタリスの記述により、主にヘイスティングスにおけるウィリアム征服王の旗手として有名である。
タースティンの出身地は、(上述の通り)ウェイスの叙事詩「ルー物語」によると、ノルマンディーのペイ-ド-コーのベック-ド-モルターニュであり、その地はフェカンの南東五マイルの位置にあった。
ベック-ド-モルターニュオーデリック・ヴィタリスは、1110年以降に度々”ロロの子タースティンはノルマンディーの旗を保持した”と書き記した。
ウェイスは、叙事詩「ルー物語」において、ヘイスティングスの旗手の役目がタースティンへ渡る場面を、おおよそ以下の様に描写した。(エドワード・クレシー卿が意訳・脚色したものを要約)
最初、ド・トニーの家系が代々ノルマンディーの旗手であったことを理由に、(公爵は)ラウール・ド・トニーに旗手を命じた。 しかし、ド・トニーは「命のある限りこの手でイングランド人と戦いたい」と答えてこれを辞退した。
次いで、ウォルター・ギファードに旗手を命じようとしたが、ギファードは、(自分は)既に白髪の老人であり、傭兵と自分の家臣の混成である騎兵部隊を指揮しなければならないため、としてこれを辞退した。
誰もが旗手の役目を辞退する次第に、公爵が癇癪を起してウォルター・ギファードに宥められ、最終的に、評判となっていたベック・アン・コーの騎士、”白の(le Blanc)”タースティン・フィッツロルフを召し出して旗手を命じた。
タースティンは喜んでこれを引き受けた。
タースティンの一族は、その役目(旗手)にある限り全ての義務を免除される。そして、子々孫々旗手の役目を継承することが許された。
バイユー・タペストリーに旗手として描かれているのは、タースティンだと考えている者たちもいるが、そこで描かれている騎乗した騎士は、上部にユスタシュのラテン表記であるE...TIUSと注釈が刺繍されていることから、ボローニュ伯ユスタシュ二世とする方が妥当と考えられる。
この絵柄は、(旗を持った騎士が)撤退を促して後方を指さし、ウィリアム公爵に話しかけている様を描いており、ウィリアム・オブ・ポワティエによって書き記された、以下の情景に合致している:
50騎を率いたユスタシュ二世・オブ・ボローニュが、兵を戻しながら撤退の合図を送って来たのに対し、公爵が厳しい声を掛けた。
この男(ユスタシュ二世)は公爵の許へ寄り、その耳元に、もし前進したら死を招くことになる断念すべきだ、と囁いた。
しかし、言葉を発した瞬間、ユスタシュ二世は背中の真ん中を強く打たれたため、口と鼻から血を噴き出して倒れてしまい、半死状態の彼は、仲間の助けを借りて脱出することしかできなかった。
ウィリアム・オブ・ポワティエは、ユスタシュが旗手であったと記述していないため、事実は明らかではないが、一方において、(バイユー)タペストリー上で、十字が描かれた教皇の旗と見られるものを保持しているのはユスタシュである、とする主張は説得力があると考えられる。
カーリーアン城は、ノルマン人侵略者により、イスキアとして知られるローマの城跡に建てられた、モット・アンド・ベリー形式の城である。 その城は、かってイングランド西部とウェールズとの国境であったアスク川の西岸、ウェールズ領側に立地していたと見られる。
カーリーアンこの城はタースティンが国王より直接与えられたのではなく、ヘレフォードとマーチ(ウェールズ国境地帯)およびノーフォークほか諸州に所領を持つ大貴族ウィリアム・ド・スクイ(またはド・エクイ)から与えられたものだった。
1086年のドームズディブックではタースティンの所領として、アスク川の西に八カルケート(中世の耕作面積の単位)の土地で構成されたカーリーアン荘が記録されている。
その荘園には、二人の農奴および私有地内の鋤一台があった。
また、その荘園には、三台の鋤を持ち、ウェールズの慣習の維持を認められた、三人のウェールズ人がいた。
その荘園の価値は40シリングと評価された。
タースティンはまた、カーリーアン城のすぐ東側、チェプストウやウェールズへ向かう街道の重要な交錯点であるセヴァーン川河口の東岸、グロスターシャーのオーストも所有していた。
グロスターシャーのオーストドームズディブックに記録されているところでは、タースティンはこの他にも、国王からの直接授封領と、ウースター司教やウェストミンスター修道院長、ウォルター・ギファードらの騎士封領を得ていた。
ウェイスの記した処により、タースティンに”親類縁者”や”後継者”がいたことは明らかだが、これらはノルマンディー領内限定であるかもしれない。
なぜなら、タースティンのイングランドでの所領が、親族に継承された記録がないからだ。
タースティンには、いくつかの文献で触れられていたところによると、聖地への十字軍に参加し、その地で亡くなったラルフ(・フィッツタースティン)という名の息子がいた。
のちに封建領主領をとなる、タースティンの領地の大部分は、(もしそれが確かに存在したとしても)彼の息子には渡らず、別の明らかに縁戚関係のない、カーリーアン城代官でもあったノルマン人貴族ワインバルド・ド・バルーンのものとなった。
一方、ワインバルドの長子エメリン・ド・バルーンは、アスク川の上流15マイルにアーバガベニー城を築き、タースティンの有したリトルマルクル荘のすぐ隣、おそらくはそれを包摂する形でマッチマルクル荘を拓いた。
マッチマルクルワインバルドはまた、ノース・キャドベリー荘として知られたタースティンの領地をほぼそのまま継承した。
ノース・キャドベリータースティンの死によるものか、はたまた国王の不興を買ったためか、この継承の理由は明らかではない。
タースティンは、征服王の死の直後に間髪入れず、ウェストミンスターで自ら戴冠した、弟のウィリアム・ルーフスではなく、弟からイングランド王国を奪い取ろうとした征服王の長子、ノルマンディー公ロベールの側を支持していたためかもしれない。
タースティンは敗れた側に賭けていたことになり、そのような状況で誰もがそうなったように、彼の領地は没収された。
そのような追放が、タースティンの隣人、グロスターシャー・オークレイのギズルバート・フィッツソロルドとロジャー・ド・レーシー(両名とも1088年に王国から追放)にも行われているのは、注目すべき点である。