エヴルー伯爵
ウィリアム

William, Count of Évreux (? - 1118/4/16)

エヴルー伯爵ウィリアム(ギョーム)は、ノルマン人によるイングランド征服とそれに続く時代における、ノルマン人貴族の中でも最有力であった一握りの者たちの中の一人。

彼については、直接授封者(Tenant-in-chief)としてバークシャーやオックスフォードシャーに領地を有していたことが、ドームズディ・ブックに記録されている。

出自

エヴルー伯爵はノルマンディー公爵家の分流の一つであり、ウィリアムが属する家系は、ノルマンディー公爵リシャール一世と公妃グンノールの間の子で、リシャール二世の弟にあたるルーアン大司教兼エヴルー伯爵ロベール二世に始まる。

このため、ウィリアム公爵(征服王)とウィリアム伯爵は、大伯(叔)父の孫同士という関係(再従兄弟)になる。 ウィリアム伯の祖父ロベール二世は、幼少のウィリアム公の保護と育成を任された、ノルマンディー公爵家一族の長老だった。

経歴

ウィリアム伯はエヴルー伯リチャードと妻ゴッドヒルデの間の子である。

ゴッドヒルデはロジャー一世・ド・トニーの未亡人である。

ロジャー一世・ド・トニーの息子たち、コンシュ卿ラウール二世・ド・トニーとスタフォード卿ロベール・ド・トニー等の母をゴッドヒルデとしている資料も見受けられるが、この場合彼らとウィリアム伯は異父兄弟の間柄になるが、明確にその関係に言及したものは見なかった。 また、ラウール二世の妻イザベルはゴッドヒルデの孫にあたり、伯父と姪の間の結婚となるが~国や時代により必ずしも禁じられているものではないが~この点についても特に言及したものが見られなかった。個人的な見解となるが、ラウール二世らの母親はゴッドヒルデではないかもしれない。言及が少ないのは肯定する史料も否定する史料もないけれど誰もが疑問を感じているから、だろうか。

追記:ロジャー一世のイベリアでの活動と結婚の経緯から、前妻との間の子である可能性を疑ったもの。

だが、ノルマンディーへの帰還年代や再婚時期、戦死した二人の年長の息子の存在などを推定して考慮すると、ラウール二世の母をゴッドヒルデとすることに無理はない、と考えを改めた。

しかし、だとすると今度は、ラウール二世とイザベルの伯父姪婚が問題となる様に思われる。 これは教会法による近親婚(教会の承認により結婚可能)の範囲よりも近い関係で、自然法により禁じられる近親婚となると考えられるためだ。

1066年初頭、エヴルー伯と呼ばれていたウィリアム伯は、その年終盤のイングランド侵攻計画に、軍船80隻を供出した。 しかしながら、ウィリアムは翌年まで父の爵位を継承しておらず、一覧の時代錯誤に過ぎないと思われる。(ただし、征服王との区別が混乱するのでここでは「伯」を付けて記述することにする) (参考記事では上記言及がなされていたが、爵位を保有するのが当主一人のみというのは、あくまで英国側の貴族制度であり、大陸側とは制度が異なるため、該当部分は抹消することとした)

ウィリアム伯は、”ウィリアム征服王の部将たち”(The Companions of William the Conqueror)として知られるヘイスティングスの戦いの参戦者の中でも、確たる史料上に名前のある一人である。

この戦いへの参戦により、ウィリアム伯はささやかながら直接授封領を与えられた。

これは1066年の時点において、ウィリアム伯が未成年であったため、(名前だけの参加で、戦闘には参加していないか、代理人・補佐による指揮が行われていたか)より大きな分け前を得ることができなかったものだろう。

1106年のティシュブレーの戦いにおいて、ヘンリー一世側について戦ったウィリアム伯が四十歳台だった事実から、1066年時点での彼は十歳未満であったと考えられる。

ヘイスティングス以後

ウィリアム伯は1085年のセント-スザンヌ城の包囲戦で捕虜となった。

1090年、ウィリアム伯は、近隣領主であるコンシュ卿のラウール二世・ド・トニーと私戦を始めたため、再従甥(はとこ甥)のロベール短袴公との間で問題が起きた。

ラウール二世はロベール公の古くからの支持者の一人として、ロベール公に援軍を求めたが、曖昧な約束しか得られなかった。

その後、ラウール二世はイングランドのウィリアム二世王のところへ支援を求め、王は快く援軍を承諾した。

王が援軍を承諾したのは、兄ノルマンディー公ロベールを弱体化させる機会を探していたためだった。

ウィリアム伯が老いて弱ってくると、その妻エルヴィスがエヴルーの支配を専横するようになった。

オーデリック・ヴィタリスは彼女について次のように記述している

”伯爵夫人は知恵も美貌も失った。彼女はエヴルー中で最も背が高い女性の一人で、そして高名なヌベール伯爵ウィリアムの娘という高貴の生まれであった”

しかし、彼女は統治をおこなうにあたって頑固で厚かましく、しばしば、夫の部下である領主たちの助言を無視した。

伯爵夫人に対する不平不満が王に訴えられた後、そして、彼女がエヴルーにある王の天守閣を破壊したという事件が起きた後、二度に渡ってウィリアム伯と伯爵夫人エルヴィスは亡命を余儀なくされた。

最期

1114年、伯爵夫人エルヴィスが死去し、ノアイヨンに埋葬された。ウィリアム伯も脳卒中によって1118/4/16に死去し、フォントネル修道院の父の隣に埋葬された。

ウィリアム伯は子供を残さずに死去したたため、ヘンリー一世王は、フランス王ルイ六世の家臣アモーリー三世・ド・モンフォールがウィリアム伯の継承者になるという問題(ノルマンディー・イングランドの配下にあったエヴルーがフランス王の影響下に移る)を抱えることになった。

ここで現れたフランス王の臣下であるモンフォール家は、レニエ家系出身のモンフォール-ラモリー卿家であり、ノルマンディー公の臣下であるモンフォール-シュル-リスル卿家のモンフォール家とは出自が全く異なる。

前者はエノー伯爵家の分流であり、後者はロロの時代には既にノルマンディーに進出してその部下となっていたバリバリのヴァイキングの家系。モンMontは英語のMountで「山」、フォールfortは「城・要塞」、合わせて「山城」か。

モンフォール-ラモリーは始祖のアモリーが築いた城に因んだ地名で”アモリーの山城”の意味になり、モンフォール-シュル-リスルは”リスル河畔の山城”の意味になる。

ありがちな状態に由来する性質上、被りが発生しやすい地名、およびそれに由来する姓である。

ウィリアム伯とその妻エルヴィスは、1100年または1114年付けの特許状で、トロアーンのサン-マーティン修道院に財産を寄付した。また、サンテブルー修道院長ロジャーの助言により、ノアイヨンに僧院を設立した。

1108年、ウィリアム伯とその妻は、私費を投じて聖母マリアに仕える教会の建設に取り掛かったが、その事業は彼らの亡命やその他の問題により度々中断され、二人は生前にその事業の完成を見ることができなかった。



エヴルー伯爵家とコンシュ卿ド・トニー家の家系

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