初代ヘレフォード伯爵・ブルタイユ卿ウィリアム・フィッツオズバーン

William FitzOsbern (1020 – 1071/2/22)

ノルマンディーのブルタイユ卿ウィリアム・フィッツオズバーンはウィリアム征服王の側近でノルマン朝イングランド初期の大貴族(マグナートmagnate)の一人。1067/2/22までにイングランド貴族の最初の爵位の一つであるヘレフォード伯爵位を創設した。

出自

ウィリアム・フィッツオズバーンはオズバーン家令の子でノルマンディー公爵リシャール一世の公妃グンノールの従甥(甥の子)にあたる。

フィッツオズバーン/ブルタイユ家系とトニー・イヴリー各家の家系図

オズバーンは従甥にあたるノルマンディー公爵ロベール一世の家令を務めた。ロバートが幼い息子ウィリアムを残して聖地巡礼に旅立つにあたり、オズバーンはウィリアムを保護する顧問団の一人となった。

オズバーンはノルマンディー公爵リシャール一世(ロベール一世の祖父)の異父弟イヴリー伯爵ロドルフの娘エマと結婚した。ウィリアムは母からの相続で(イヴリー伯爵家の)パシーとブルタイユの荘園を含むノルマンディ中央部の広大な所領を継承した。

経歴

ウィリアム・フィッツオズバーンは恐らくウィリアム公爵の宮廷で育てられ、父同様公爵の家令の一人となった。 ノルマン貴族としてコルメイユ修道院、リル修道院、サン-テヴルー修道院を設立した。

彼は最初期からのイングランド侵攻支持派であり、伝承ではノルマン人領主の懐疑派にイングランド侵攻の実現可能性を納得させたのは彼だという。

ウィリアム・フィッツオズバーンは”ウィリアム征服王の部将たち”(The Companions of William the Conqueror)として知られる、ヘイスティングスの戦いの参戦者の中でも確実な史料上で名前が明らかにされている一人である。

フィッツオズバーンの弟オズバーン・フィッツオズバーンはエドワード証聖王の御付司祭の一人でサセックスのボシャムの裕福な教会を保有しており、イングランド情勢を諜報する望ましい地位にあった。オズバーン・フィッツオズバーンは後にエクセター司教となった。

ウィリアム公爵がイングランドを支配したとき(イングランド王ウィリアム一世となった)、フィッツオズバーンは褒美としてワイト島を与えられ、1067/2/22までにグロスター伯爵、ウースター伯爵、オックスフォード伯爵と並んでヘレフォード伯爵に叙爵された。イングランドのそれらの地域はまだ完全なノルマン人支配下とはなっていなかった。

征服王は1067年の夏、不在中のイングランドの支配をフィッツオズバーンとバイユー司教オドに任せて征服王はノルマンディーへ帰還した。王は1068年にイングランドへ帰還し、フィッツオズバーンを伴ってイングランド南西部に遠征した。

フィッツオズバーンは五月の国王聖霊降臨祭法廷に出席し、その後ノルマンディー帰国中に数カ月ほど病を得た。
1069年の二月か三月、フィッツオズバーンはヨークのニューキャッスルを任されたが、四月の国王復活祭法廷に出席するため南(ロンドン)へ帰還した。

西部ミッドランドにおけるアングロ-サクソンの抵抗勢力は、詳細は不明ながらフィッツオズバーンの活躍で1069年に鎮圧された。この間フィッツオズバーンとその部下達はウェールズへ侵攻し、ウェールズ人のグウェント王国の征服に着手した。

イングランド(およびウェールズ)のノルマン人支配の表れとして、フィッツオズバーンらは城を築いた。ワイト島のカリスブルック、南ウェールズのチェプストウ、ウィグモア城、クリフォード城、バークレー城そしてモンマス城を含む初期の城は彼の築城によるものである。フィッツオズバーンはまた、ヘレフォードやシュールズベリーの都市の防御設備の建設や拡張を行った。

最期

1070年、征服王の義理の兄弟ボードワン六世・オブ・フランドルがフランドル伯爵位と幼い息子達を未亡人モンス・エノー伯爵夫人リシルドの手に残して死去しており、そのフランドルで争いが起きた。リシルドのフランドル支配は亡き夫の弟”フリース人”ロベールに脅かされた。彼女は支援を求めてフィッツオズバーンに求婚した。フィッツオズバーンは豊かな領地の伯爵としてノルマンディーに近づけるチャンスに抗えなかった。彼は軍を率いて急行したが、それにもかかわらずフランドル伯に敗れて1071/2/22のカッセルの戦いで命を落とした。

家族・子孫

フィッツオズバーンは最初ロジャー一世・ド・トニーの娘アデライザ・ド・トニーと結婚した。
一説にはカッセルの戦いの前に短期間ながらリシルドとも結婚したともいう。
アデライザとの間に以下の三人子があった:

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