バイユー司教兼ケント伯爵オド

Odo, Earl of Kent and Bishop of Bayeux (1030? – 1097)

バイユー司教・ケント伯爵オドはウィリアム征服王の異父弟であり、一時はイングランド王に次ぐ権力者であった。


ウィリアム征服王とコントヴィール兄弟

彼はウィリアム征服王の母エルルヴァとエルリヨン・ド・コントヴィールとの間の子。ロバート(ロベール)・オブ・モータン伯爵は彼の弟である。オドの誕生日は定かではない。歴史家は1035年頃の誕生と示唆している。ウィリアム公爵は1049年にオドをバイユー司教に叙任した。当時オドは19歳から14歳くらいであったため誕生は早くても1030年だろうと推察された。

ノルマン征服およびその後

オドは叙任されたキリスト教聖職者であったが、もっぱら戦士及び政治家として認識されている。

彼はイングランド侵攻に軍船を提供、また”ウィリアム征服王の部将たち”(The Companions of William the Conqueror)として知られる、ヘイスティングスの戦いの参戦者の中でも確実な史料上で名前が明らかにされている一人である。

恐らくオドの委託による彼の大聖堂を飾るためのバイユー・タペストリーは、オドがヘイスティングスで直接戦闘に参加(それは血を流すことを意味する)するのではなく、むしろ後方から軍勢の督戦に努めた点を主張している。彼の姿のタペストリー上部に刺繍されたラテン語の注釈は”ここにオド司教はクラブ(棍棒)を手にして兵らを力づけた”と読める。

これは非常に問題があり、クラブは一般的には武器であってしばしば指揮官によって用いられたものだが、オドの聖職者としての地位が剣の使用を禁じていたためのようだ。彼はウィリアムの傍でもっぱら司教、近習、宮廷メンバーとして経歴を積んだ。

1067年オドはケント伯爵に叙爵され数年間は国王の信頼厚き閣僚であった。ウィリアムが(ノルマンディーへ帰還するため)不在となるときオドがイングランドの摂政を務めるのが普通だった。同時に反乱者(例えば伯爵たちの反乱のような)に対する王の軍勢を指揮したのも彼だった。しかしながら、オドの権限がどこまで及ぶものであったのかは詳らかではない。彼はまた、別の機会にはウィリアムに同伴してノルマンディーへ帰還することもあった。

この時期、オドはイングランドで国王次ぐ大領主であった。彼は23の州に渡って所領を有し、その主たるものは南東部と東アングリア地方(ノーフォーク・サフォーク)にあった。

審判、逮捕そして反乱

1076年、オドは王領とカンタベリー大司教領の詐取についてケントのペネンデン・ヒースで三日間に渡って開かれた高位者審判に直面していた。その判決により彼は多大な資産の返却と領地の再配分を強いられた。

1082年、オドは突然、イタリアへの軍事遠征を計画した廉で逮捕された。その動機は明らかではない。年代記作者が一世代のちに記したのは、オドは教皇になろうとした、という。しかし、それは証拠からは疑わしい。いずれにせよ、オドは続く五年間を牢獄の中で過ごし、イングランドにおける彼の所領もケント伯の地位同様国王に接収された。だが、バイユー司教の地位は剥奪されなかった。

1087年ウィリアム一世はその死に臨んで異父弟モータン伯ロバートに説得され不本意ながらオドの釈放を認めた。王の死後、オドはイングランドへ戻った。征服王の長子ロベール短袴公はノルマンディー公爵となり、一方その弟ウィリアムはイングランド国王となった。司教はイングランド国王にロベール短袴公を推していた。

1088年の反乱は失敗し、ウィリアム赤顔王はオドを国外退去とした。その後、彼はノルマンディーでロベールに仕えた。 オドは第一回十字軍に参加したが、その途上1097年の一月か二月にパレルモの地で死去した。

人物と事跡

オドについて良い処はほとんどなく、彼の膨大な富が強要な略奪によって成されたことが記録されている。

彼の欲望は限りなく道徳は欠如していた。しかしながらその時代の多くの高位聖職者同様、彼は学問と芸術の後援者でもあった。

オドはまた偉大な建築者でもあった。彼は11059年にトロアーン修道院を開設し、バイユー司教区の大聖堂を再建した。そして高名なバイユー・タペストリーの作成を依頼した人物と見られる。 オドはまた、初期版の「ローランの歌」の支援者であったかもしれない。

より確かな事跡としてはバイユーに教会付属学校を開設し、のちに高位聖職者となった多くの若者たちの支援者となっていたことだ。

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