ボローニュ伯爵
ユスタシュ二世

Eustace II , Count of Boulogne (1015-1020 - 1087)

”髭のユスタシュ”(aux Gernons / with moustaches)としても知られるユスタシュ二世は1049-1087年の間のボローニュ伯爵であり、先代ボローニュ伯爵ユスタシュ一世の子。

出自

ボローニュ伯爵家はフランドル伯爵家の分家の家系である。フランドル伯ボードワン二世の子アデロルフがボローニュ伯爵を与えられ、以降アルヌルフ二世、アルヌルフ三世、ボードワン二世、ユスタシュ一世と続いた家系の六代目。

ヘイスティングスの戦いではノルマン側として戦いに参加し、イングランドに荘園を形成する広大な所領を与えられた。

”ウィリアム征服王の部将たち”(The Companions of William the Conqueror)として知られる、ヘイスティングスの戦いの参戦者の中でも確実な史料上で名前が明らかにされている一人である。

ユスタシュはバイユー・タペストリーの後援者(スポンサー)だった可能性が示唆されている。

経歴

1047年ユスタシュ二世はロートリンゲン公爵ゴッドフリート三世イド・ド・ロレーヌと結婚(1058年、イドが17歳のときとの説もあり)

1048年ユスタシュは神聖ローマ皇帝ハインリヒ三世に対する義父の反乱に加担(この時はフランドル伯ボードワン五世、ホラント伯ディルク四世、エノー伯エルマンらも合流)

同年、ユスタシュ二世は教皇レオ九世から近親婚(教会法に基づくもので時代により変遷するが教会式親等計算で当初は4親等内、のちに7親等内=日本法で一般的に用いられるローマ式に換算すると5親等および8親等に相当。自然法に基づく近親婚の禁止と異なり教会法による近親婚の禁止は教会により特免を与えることができた。ヒレア・ベロック著『ウィリアム征服王の生涯』叢文社刊 P164.本文末注参照)を理由として破門された。ユスタシュ二世とイドはともにフランス王ルイ二世の子孫で7(8)親等にあたる。

この教皇の宣告はおそらくハインリヒ三世の命によるものと考えられる。反乱は失敗し、1049年ユスタシュ二世とゴッドフリート三世はハインリヒ三世に降伏した。

ユスタシュ二世は1051年にイングランドを訪問しエドワード証聖王の宮廷で荘園を下賜された。 ユスタシュ二世とエドワード証聖王はかって義理の兄弟(ユスタシュ二世の死別した前妻はエドワード証聖王の妹ゴダであった)という間柄で政治的な同盟関係は継続していた。

イングランドの政治的派閥のもう一方の象徴はゴドウィン伯爵であり、ゴドウィン伯の息子のトスティが当時ユスタシュ二世と競合関係にあったフランドル伯の娘と結婚したばかりだった。さらにゴドウィン伯の別の息子スェイン・ゴドウィンソンはユスタシュ二世の義理の息子(ユスタシュ二世の前妻ゴダとゴダの前夫ヴェクサン伯ドロゴ・オブ・マントの子)”臆病者”ラルフ(ウェールズ人との戦闘で敵前逃亡したためついた仇名)と反目していた。

ユスタシュ二世とその従者らがドーヴァーの市民と起こした乱闘騒ぎは王とゴドウィン伯の対立を深刻化させた。

のちに審判対象となったドーヴァー市民への処罰が(ゴドウィン伯により)拒否された。こうしたゴドウィン伯の権威への敬意を欠いた振る舞いはのちにゴドウィン伯一族の私権剥奪の口実となった。ゴドウィン一族は一度イングランドを退去したが、翌1052年にはフランドルの支援を受け大軍を引き連れて戻って来た。

1052年ウィリアム・オブ・タルーが甥のノルマンディー公爵ウィリアムに対して反乱を起こしたが、明白な証拠はないけれどもユスタシュ二世がこの反乱に深く関わっている可能性がある。なぜなら反乱に敗れて降伏した後、ウィリアム・オブ・タルーはブローニュ伯の許へ亡命したからだ。

つづく数年、ユスタシュ二世の敵や競合者はさらに勢力を増しているように見えた。フランドル伯ボードワンは東部へ領地を拡大していた。1060年ボードワンは甥のフランス王フィリップ一世の傅役となった。

対照的にユスタシュ二世の方では義理の息子のウォルター・オブ・マントがメーヌ伯の爵位請求に失敗していた。ウォルターはノルマン人に捕えられ不可思議な状況下でその後すぐに死亡した。

ヘイスティングスの戦い

これらの出来事は明らかにユスタシュ二世の政治的忠誠に変化を起こし、それからのユスタシュ二世は1066年のノルマン人によるイングランド征服の重要な参加者となった。

文献では戦闘中のユスタシュ二世の指揮の詳細について格別の言及をしている訳ではないが、それでも彼はヘイスティングスで戦ったのだ。同時代の年代記作者ウィリアム・オブ・ポワティエはユスタシュ二世に関してこう書き残している。

50騎を率いたユスタシュ二世・オブ・ボローニュが兵を戻しながら撤退の合図を送って来たのを厳しい声で公爵が呼んだ。この男(ユスタシュ二世)は公爵の許へ寄り、その耳元でもし前進したら死を招くことになる断念すべきだ、と囁いた。しかし言葉を発した瞬間、ユスタシュ二世は背中の真ん中を強く打たれたため口と鼻から血を噴き出して倒れてしまい、半死状態の彼は仲間の助けを借りて脱出することしかできなかった。

バイユー・タペストリーでは旗持ちの馬上の騎士がウィリアム公爵に近寄り興奮しながらノルマン軍の進行方向の虐を指さしている様が描写されている。ウィリアムは振り返り彼に続く騎士たちに彼が生きており、断固戦い続けることを示すため兜の面頬を上げた。これに基づくのなら、戦いの帰趨がまだ不明な一方でユスタシュ二世は怖気づいて公爵に撤退を進言したこととなる。

他の史料では戦いの直後に起きた”悪魔の穴 Malfosse”(Mal=悪 Fosse=濠、堀)の現場にいたウィリアムとユスタシュ二世に死体を装っていたサクソン人が飛びかかって来たが公爵に届く前に切り倒されたことを示唆する。

戦後、ユスタシュ二世は広大な所領を与えられた。そのことは彼が他の方法、恐らくは軍船の提供により立派に貢献したことを示唆する。

反乱

翌年、恐らくユスタシュは略奪品の分け前に不満を持っていたためか、ドーヴァー城を占拠しようとするケント人を支援した。陰謀は失敗し、ユスタシュはイングランドにおける領地剥奪の宣告を受けた。その後ユスタシュは公爵と和解し、没収された領地の一部を返還された。

最期

1087年ユスタシュ二世が死去し、子息ユスタシュ三世により承継された。

結婚と子孫

ユスタシュ二世は二度結婚した:
最初の妻はイングランド王アセルレッド二世の娘でエドワード証聖王の妹ゴダ(1047年死去)である。
二人目の妻はゴダの死後すぐの1049年下ロレーヌ(ロートリンゲン)公ゴッドフリート三世の娘イド・オブ・ロレーヌ。イドとの間に以下の子を成した。

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