ロングヴィル卿
ウォルター・ギファード

Walter Giffard, Lord of Longueville

ロングヴィル卿ウォルター・ギファードはノルマン人領主の一人でイングランドの直接授封者であり、レ・コンキスタではスペインにおいてイスラム戦士と戦ったキリストの騎士である。そしてまた、”ウィリアム征服王の部将たち”(The Companions of William the Conqueror)として知られる、ヘイスティングスの戦いの参戦者の中でも確実な史料上で名前が明らかにされている一人である。

出自

ウォルターはロングヴィル卿オズボーン・ド・ボールベクと、ノルマンディー公妃グンノールの姉妹であるアヴェリーナ(ウェヴィアとする説も)の子であり、ウィリアム征服王の従祖叔父にあたる。

経歴

1040年代半ばからウィリアム征服王の忠実な支持者の中にウォルターの名が見られた。

ウォルターはモルティメールの戦いに参戦しており、東部方面から奇襲してきたオド伯(フランス王弟。知的障害があった可能性あり。敗戦後死亡)とクレルモン伯rai ナルト指揮するフランス軍に驚愕しこれを防衛したノルマン人領主の中に含まれていた。

特にウォルターともう一人の公爵の重臣ユー伯ロバートはモルティメールの村で、兵士たちは酔いどれて見張りも立てずに宿営を張っている王弟オドの部隊に遭遇した。ノルマン側はフランス軍が眠り込んでいるところを襲撃し、大部分を殺害するか捕虜にした。

王弟オド自身は脱出したがフランス王アンリ一世が弟オドの軍の運命を知るや速やかに指揮下の軍を撤退させノルマンディーから去っていった。

1054年にウォルターはウィリアム公爵に対して反乱を起こしたウィリアム・オブ・タルーのアルク城包囲戦に応援で駆り出された。

レ・コンキスタ

他の多くの11~12世紀初期のノルマン人やフランス人の騎士たちと同様、ウォルターはスペインでキリストの騎士としてイスラム戦士と戦った。

1064年教皇アレクサンデル二世はムーア人の都市バルバストロの包囲戦を認可した。これは当時の名だたる快挙の一つであり、この包囲戦におけるウォルターの活躍によって”ラ・バルバストロ”という仇名が彼に贈られた。

イングランド侵攻の時期までにウォルターはウィリアム公爵へのスペイン王の贈り物である見事な軍馬を携えてノルマンディーへ帰還した。それはヘイスティングスの戦いの日の朝にウィリアム公爵がスペインの軍馬と呼んだ馬であった。 このスペイン王とは北フランスで友好関係を築き騎士と戦士を募集したサンチョ・ラミレス・オブ・アラゴンに違いない。

バルバストロ包囲戦後ノルマンディーへ帰国する前のことだったが、ウォルターはサンティアゴ・デ・コンポステーラを巡礼した。それは初めての、もしくは少なくともイングランドでは初めての巡礼だった。

ノルマン征服

1066年の一月初め、ウィリアム公爵はハロルド・ゴドウィンソンがイングランド王として戴冠したとの報せを受け取り、主だった六人の重臣たちを呼び集めた。ウォルターはその中の一人であった。

イングランドへ侵攻し王冠を奪取する、という公爵の計画が語られると、重臣たちは主君への全力支援を宣言した。そして全家臣を呼び集めての会議開催が提案され、公爵はそれを実行に移した。

ヘイスティングスの戦いへの準備段階で、ウォルターはノルマンディーの旗手の役目を打診されたが、配下の騎兵隊指揮のため丁重に辞退した。

論功行賞でウォルターは107か所の荘園を含む(うち48か所はバッキンガムシャーに存在し、中心地はバッキンガムシャーのロング・クレンドンにあった)バッキンガムシャーのロング・クレンドン男爵位を与えられた。彼の没年は記録されていないが、1085年までに息子のウォルターが父の地位を継承した。

家族

ウォルターは、当時ノルマンディーで最も有力といわれたジェラード・フリテール(アルクのウィリアム・オブ・タルーの家臣でノルマンディー公ロベール一世のイエルサレム巡礼に同行した)の娘エルメンガードと結婚した。
二人の間には以下の子があった:

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