グラヴィル卿ウィリアム・マレ

William Malet, Lord of Graville (? - 1071)

ウィリアム・マレは”ウィリアム征服王の部将たち”(The Companions of William the Conqueror)として知られる、ヘイスティングスの戦いの参戦者の中でも確実な史料上で名前が明らかにされている一人である。

ノルマンディのセーヌ川河口アルフルール(現在のル・アーブル郊外)付近のグラヴィル-サント-オノリーヌ城とペイ-ド-コーを所領としていた。

事跡

伝承ではウィリアム・マレはイングランド王ハロルド二世の妻エディスの叔父だという(マレの妹エルギフがエディスの父であるマーシア伯エルガーと結婚していたため、と云う) 二心が有ったのか無かったのか、いずれにしてもヘイスティングスにおいてマレはノルマンディー側として戦った。

ウィリアム・オブ・ポワティエは次の様に書き記す:”彼(ハロルド王)の遺体は公爵の陣営に運び込まれ、ウィリアム公爵はその遺体を、愛する息子の遺体をそれと同じ重さの金で購いたいというハロルドの母に渡すのではなく、埋葬するようウィリアム、姓はマレ、に申し付けた”

マレの戦闘中の活動についてウィリアム・オブ・ポワティエは何も言及しておらず、むしろ戦闘後の公爵の陣営中でしか現れてこない。 しかしながらこれでも彼が戦いの参加者の一人であったと判断するには十分であろう。

イングランド征服事業における最初の数年間のマレの活動は明らかになっていない。 しかし、1068年のヨーク占領後、マレは最初のヨークシャーの州長官に指名され、ヨーク市中に建設されたニューカッスルの駐屯地の司令官の一人となった。マレのデーン人侵略に対する州防衛の努力は結局悲惨な失敗となり翌年都市は炎上し駐屯地では虐殺が行われた。 マレとその妻および夫妻の子供たちのうち二入は人質として捕えられた。そして最終的にはデーン人が追い出されて解放された。

マレは北部での任務から解任されたが、まだ国王の好意を失っていなかったのかそのすぐ後にノーフォークとサフォークの州長官に指名され、広大なアイ荘とサフォークやその他の州の所領を与えられた。それは実際東アングリア地方で最大の所領であった。彼はアイにモット・アンド・ベリー形式の城を建設し、その地に市場を開いた。

ヘリワード・ザ・ウェイクの反乱の最中とみられる1071年頃マレは死去した。

家族と子孫

マレはエリス・クリスピン・ド・ブリヨンヌ(初代ノルマンディー公爵ロロの曾孫)と結婚していた。

アイ卿兼サフォークの州長官としてウィリアム・マレの跡を継いだのは息子のロバートであった。ウィリアムのもう一人の息子ギルバートはシェプトンマレットに分家を起こした。

ドームズディブックではリンカシャーと近隣に所領を持つデュランド・マレという人物の名も見える。定かではないがウィリアム・マレの兄弟かもしれない。

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