初代レスター伯爵・ムーラン伯爵
ロバート・ド・ボーモン

Robert de Beaumont, 1st Earl of Leicester, Count of Meulan (1040 or 1050 - 1118/6/5)

ノルマン征服期の有力貴族で”ウィリアム征服王の部将たち”(The Companions of William the Conqueror)として知られるヘイスティングスの戦いに参戦した(と主張する)人物の中でも確実な史料上で名前が明らかにされている一人。

ロバートは当時最高の知識人の一人として尊敬を受けていた。年代記作者の言によれば、彼の弁舌の才や教養は極めて高く、またその助言はイングランド三代の国王に高く評価されたという。

出自

ロバートは1040年から1050年の間にロジェ・ド・ボーモン(1015-1094)とその妻アデリーン・オブ・ムーラン(1081死亡。ムーラン伯爵ワレーラン三世の娘)の子として生まれた。弟に初代ウォリック伯爵ヘンリー・ド・ボーモン(1050-1119)がいる。

ボーモン家系図2

ヘイスティングスの戦いにおいて

1066年のヘイスティングスの戦いでロバートはノルマン兵の右翼歩兵部隊を指揮した。後にウィリアム・オブ・プワティエが記録した史料の記述によると、

ムーラン伯爵ヘンリーの甥にしてその後継なるロジェ・オブ・ボーモンの息子ロバートなるノルマン人はそのとき初陣であった。
彼はまだ若年ながら歴史に名を刻む奮戦ぶりで、自身の指揮する右翼兵団の先頭に立ち比類なき勇猛さで戦って勝利した

この戦功で1086年のドームズディ・ブックに記載されたところによると、敗れたイングランド(貴族)から没収された91か所以上の荘園を褒賞として与えられた。

継承

1081年に母アデリーンが死去するとロバートはノルマンディーのムーラン伯爵とイヴリー子爵、ノートン卿の称号を継承した。この領地相続によりロバートはフランス王フィリップ一世に(も)忠誠を誓う、フランス王の直臣貴族の一人としてポワシーの議会に議席を有することになった。

事績

ロバートと弟のヘンリーは、ハンプシャーのニューフォレストで1100/8/2に行われた王室狩猟パーティの出席者であった。その狩猟パーティではウィリアム二世赤顔王が誤射により事故死するという事件が発生した。ロバートはウィリアム二世の弟、ヘンリー一世(1100-1135)に忠誠を誓い、1107年ヘンリー王はロバートをレスター伯爵に叙爵した。

ノルマンディーの領地の被害

ウィリアム二世が死去するとエヴルー伯爵ウィリアムコンシュ卿ラルフ・ド・トニーは、ロバートが国王に讒言したことで被害を受けたと主張し、ノルマンディーにあるロバートの領地に侵攻、略奪を行い多額の戦利品をせしめた。

結婚と子孫

1096年、フランス王フィリップ一世の弟ヒュー・マグヌス(1053-1101)の娘イザベル・ド・ヴェルマンドワ(-1131)と結婚(ロバートの死後、イザベルは1118年に二代サリー伯爵ウィリアム・ド・ワレンヌと再婚した)

二人の間には以下の子等があった:

ボーモン家系図3

最期

ヘンリー・オブ・ハンティンドンによると、ロバートは”とある伯爵は信頼する貴婦人による陰謀か計略と強制により隙を突かれる”(妻イザベルによる謀殺)という無念のうちに死亡した。ロバートはヘイスティングスで戦ったノルマン貴族の最後の生き残りだった。

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