クレア卿
リチャード・フィッツギルバート

Richard fitz Gilbert (1035 - 1090), Lord of Clare

1066年に始まるノルマン征服(イングランド侵攻)に参加したノルマン人領主であり、その領地名から”ド・クレア””ド・ビヤンフェット””トンブリッジ”と呼称された。

リチャードの父はノルマンディー公爵ギョーム二世(征服王ウィリアム)幼少時の守護者の一人ブリヨンヌ伯爵ギルバート・クリスピン。父伯爵は1040年にラルフ・ド・ウェシーらにより殺害され、彼と兄弟のギルバートはフランドル伯爵の宮廷に亡命した。

リチャードは後にノルマンディーへ帰還(ノルマンディー公ギョーム二世へフランドル伯の娘マティルダが輿入れする際のことという)し、ビヤンフェットとオルベックの領主権を与えられた。1066年リチャードは征服王ウィリアムのイングランド侵攻に参加し、多大な恩賞に与かった。

英国人名辞典ほかの文献ではしばしばド・クレアという名の使用にあたって矛盾や曖昧さがあるが、理解しておくべき点はド・クレア家の最初の人物リチャード・フィッツギルバート(オブ・トンブリッジ)がかってのドームズディ・ブックまで遡ったときには「サフォークのリチャード・オブ・クレア」と記載されていたということだ。

リチャードはイングランドにおいて176カ所の領主権とクレア城およびトンブリッジ城建設の許可を含む巨大な特権を与えられた。彼はサフォークのクレアの領主権与えられた。現在もクレア城の城壁の一部は現存している。

リチャードはクレア卿となったが、当時および後の文献でクレア伯爵とされることがあったが、現在ではド・クレアの称号は(伯爵号ではなく)「呼称」と理解するものが多数派である。彼は征服王ウィリアム不在時のイングランドの司法長官の一人を務め、1075年の反乱鎮圧で大きな役割を果たした。

征服王の死後、リチャードほかのノルマン人大領主たち(そこにはバイユー司教オドモータン伯ロバートウィリアム・フィッツオズバーンジョフリー・オブ・クタンス(モウブレー)が含まれた)はノルマンディー公ロベール短袴公を王位に就けるため、ウィリアム・ルーフス王の支配に対する反乱を起こした。

しかしながらイングランドのノルマン人多数派はウィリアム王側につき、ウィリアム・ルーフス王とその軍勢は反乱側の拠点であるトンブリッジ、ペヴェンシー、ロチェスターの攻撃に成功した。

リチャードは1091年のカルヴァドス・クルシー包囲戦に参加。攻城側ロベール・ド・ベレームとの戦闘で捕虜となり解放されることなくド・ベレームの地下牢で獄死したという(ヒュー・ド・グランメニルの項を参照)。

同年リチャードはセント-ネオツ修道院に埋葬された。未亡人は1113年まで生存。彼の所領は子のギルバート・フィッツリチャードにより相続された。

リチャードはロングヴィル卿ウォルター・ギファードの娘ホエーズと結婚し以下の子を儲けた。

ド・クレア家とギファード家の略系図
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