ギルバート・フィッツリチャードはウェールズのカーディガンの領主で有力なノルマン人諸侯の一人。
ギルバートは1066年頃までにリチャード・フィッツギルバート・ド・クレアとホエーズ・ギファードの間の二人目の息子として誕生した。
彼は1088年父の修道院入りに伴ってイングランドにおける所領を相続した。兄弟のロジャー・フィッツリチャードがノルマンディーにおける所領を相続した。
同年、彼とロジャーはウィリアム・ルーフス王の軍に対してトンブリッジ城に立て籠もったが、城は落ちギルバートは負傷して虜囚となった。しかしながら彼ら兄弟は1100年8月のウィリアム・ルーフス王の死にあたっては(葬儀に)出席していた。またギルバートは1101年ウェストミンスターでヘンリー一世のクリスマス宮廷に出仕していた。
そのことは現代の歴史家たちにギルバートが諸侯らの陰謀の一部としてウィリアム・ルーフス王の不審死に何らかの役割を演じていた、という着想を与えてきた。
フランク・バローは国王の死にギルバートが何らかの役割を果たしたことも陰謀が存在したことさえ証明するものは見い出されていないと指摘した。
1110年ヘンリー一世王はジェラード・ド・ウィンザーの妻ネストの略取を含む数々の罪状に対する処罰としてカドゥガン・アプ・ブレーデンの子オウァイン・アプ・カドゥガンからカーディガンを没収した。そしてカーディガン城を含むカーディガンの領主権をギルバート・フィッツリチャードに与えた。
ギルバートはサフォークのストーク・バイ・クレアにクリュニュー会派修道院を設立、1117年以前に死去した。
ギルバートはクレアモント伯爵ヒューの娘アリスと結婚し、少なくとも八人の子を得た。