ブリヨンヌ伯爵兼ウー伯爵
ギルバート・クリスピン

Gilbert Crispin (1000 - 1040) , Count of Eu, Count of Brionne

ギルバート・クリスピンは北部フランスのノルマン人貴族でウー伯爵・ブリヨンヌ伯爵を兼ねた。征服王ウィリアム幼少時の守護者の一人。

ギルバートは、ノルマンディー公爵リシャール一世の非嫡出子であるウー伯爵ジョフリーの子であった。ギルバートはブリヨンヌの領地を相続し、ノルマンディーの有力領主の一人となった。彼はかって彼の下で騎士として勤めていたエルウィンが1031年に設立したベック修道院の主要な後援者であった。

ロベール一世が1035年に死去した際、その非嫡出子ギョーム(二世。のちの征服王ウィリアム)が爵位を継承した。ギルバートやルーアン大司教ロベールオズバーン家令ブルターニュ公アランを含む指導的立場の貴族数名が若き公爵の守護者となった。

ラルフ・ド・ガセ(ルーアン大司教ロベールの子の一人)を含む多くのノルマン領主たちは非嫡出子が彼らの主君となることを受け入れられなかった。1040年公爵暗殺が試みられたがその企みは失敗した。だがギルバートはエショフール近郊を遠乗りしている最中に襲われて殺害された。暗殺者はラルフ・オブ・ウェシーとロベール・ド・ヴィトの二人と考えられている。

この事件はジロワの遺児達によるギルバートへの復讐の実行と見られ(エショフール卿ジロワとギルバートには所領を巡る諍いがあり、ジロワ死去後にギルバートによる侵略が行われた)、ラルフ・ド・ガセの仕業によるものであるかは不明である。※ラルフ・ド・ガセの弟ウィリアムはジロワの娘アワイズ(ロジャー・ド・グランメニルの未亡人)と結婚しており、少なくともエヴルー伯爵家とジロワ家には敵対的関係は無かった

父の仇と直面するのを恐れ、ギルバートの子リチャードとボードワンは友人らに護送されてフランドル伯爵ボードワン五世の宮廷に亡命した。

ギルバートには上述の二人の子があった。

ド・クレア家とギファード家の略系図

ギルバートの子孫はド・クレア家、フィッツウォルター男爵家、グロスター伯爵家(四代ハートフォード伯が母系を通じてグロスター伯を相続)、ハートフォード伯爵家の祖となる。

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