ネザーウェント卿
ウォルター・ド・クレア

Walter de Clare (? - 1138), Lord of Netherwent

ウォルター・ド・クレアはノルマン人貴族でティンターン修道院の創設者。 有力な家系ド・クレア家の一員で1119年頃ヘンリー一世王よりチェプストー城周辺の所領を与えられた。ウォルターはそれ以降のヘンリー王の治世でも特許状に名が現れていた。

そしてヘンリー王の後継者であるスティーブン王の初期の支持者でもあった。ウォルターの名が最後に歴史上の記録に現れるのは1136年であり、子を得ずに死去した。彼の所領は甥が相続した。

ウォルターはクレアとトンブリッジの領主リチャード・フィッツギルバートの末の息子であり、母はロングヴィル卿ウォルター・ギファードの娘ホエーズであった。

ホエーズとリチャード二は少なくとも六人の息子と二人の娘があった。ウォルターの兄弟にはロジャー、ギルバート、リチャード、ロバートそしてゴドフリーがおり、姉妹にはアリスとホエーズがいた。

ウォルターらド・クレア家は有力な家系であり、ヘンリー王の兄ウィリアム二世王に対する1088年と1095年の反乱・謀議に参加していた。

ド・クレア家とギファード家の略系図

ウォルターの生涯についてはウィリアム・オブ・ジュミエージュにより著された「ノルマンディー公の事跡」から知られるものの外はほとんど分かっていない。

歴史上の記録における最初のウォルターについての言及は、彼がヘンリー一世王よりワイ河畔のチェプストー城を含むネザーウェントの領主権を与えられた際のことで、1119年以前のいつかの時点のことだ。

ウォルターのネザーウェントまたはチェプストーの土地保有権は一般的に領主権(feudal barony)と考えられており、多くの歴史家がウォルターは封建諸侯(baron)であるとしている。

このウォルターの領地は、その兄ギルバート・ド・クレアに与えられたものも含め、ヘンリー王によって南ウェールズで授与された広大な封領の一部であった。

ヘンリー王はまた、ギルバートとウォルターの他の兄弟にも所領を与えた。弟ロバートはリトル・ダンモアの地を与えらえた。

ヘンリー王からド・クレア家にこれらの封領が授与されたことは、のち1110年代にノルマンディーの支配を巡ってヘンリー王とその甥ウィリアム・クリトーが衝突した際にド・クレア家がヘンリー王側へ味方する要因となった。

ウォルターの名はヘンリー王の12通の勅書の中に現れており、これらはすべて1131年以前のものである。彼はまたヘンリー王の後継者スティーブン王の治世の初期の勅書に名が見えている。 一つは1136/1/4のヘンリー王の葬儀における勅書で、もうひとつは1136年復活祭のスティーブン王の宮廷におけるものであった。

これら二つの勅書からはスティーブン王によるヘンリー王の娘マティルダからの王権奪取におけるスティーブン王の初期の支持者にウォルターが含まれるということが示されている。 これらスティーブン王の治世初期の勅書は、ウォルターの人生中、最後に彼の名が文献に現れたものであった。

1136年、ウォルターはアンジュー伯ジョフリー五世に攻撃されたノルマンディーのル・サップ防衛の指揮も行った。

ウォルターは1131/5/9シトー派修道院としてティンターン修道院を設立した。これはブリテン島では二番目のシトー派教会であった。

設立にあたった修道士たちはフランスのロモーヌ修道院からやって来た者たちだった。ティンターン修道院の廃墟はウィリアム・ワーズワースの詩の題材となりまたJ.M.W.ターナーによって描かれたけれども、これらの廃墟にウォルターが築造した当時の建築物はほとんど含まれておらず建築当初のものではない。

ウォルターが結婚していたかどうかについては歴史家の間で意見が異なっているが、子供が居なかったことについては一致している。ウォルターが結婚していたとする論者にはラルフ・ド・トニーの娘イザベルがその妻であったとする主張がある。

ウォルターは1136年の復活祭までは生存しており、その後死去した。ティンターンのウォルターに関する死亡告知は彼の死が3/10であることを記しているが年の記載がない。通常、1138年中のどこかの時点で死亡したものとされているが、これは明らかではなく、推定である。ウォルターの所領は甥のギルバート・ド・クレア(兄ギルバートの子)が相続した。

スポンサードリンク