アランソン伯爵兼三代シュールズベリー伯爵
ロベール・ド・ベレーム

Robert de Bellême, seigneur de Bellême, seigneur de Montgomery, viscount of the Hiémois, 3rd Earl of Shrewsbury , Count of Ponthieu , Count of Alençon


ロベール(ロバート)・ド・ベレーム(1052/1056 - 1130)は初代シュールズベリー伯爵ロジャー二世・ド・モンゴメリーの長子でベレーム卿、モンゴメリー卿、イエモア子爵、三代シュールズベリー伯爵、ポンテュー伯爵、アランソン伯爵を兼ねたポストノルマン征服時代の大諸侯で有力家系ベレーム家の一員でもあった。

ロベールはその残忍さで悪名高かった。年代記作者オーデリック・ヴィタリスはロベールを指して”神の教会と貧者にとって貪欲かつ残酷で執拗な弾圧者・・・神の御代を通して比類なき罪深き者”と呼んだ。彼の悪行の物語が「悪魔ロバート」伝承を形成したかもしれない。

1070年大伯父セー司教イヴォの死後によりベレームの地を相続した。この領地は彼の母が相続人となっていたものだが、結局最終的には最年長の男子である彼の領地となるものだった。

ロベールは1073年征服王がメーヌに侵攻した際、フリネ城包囲戦においてウィリアム王により騎士叙任された。 年齢的にも父から独立していたであろうと思われるロベールは、1077年征服王に対するロベール”短袴公”公子の反乱に加担した。

ロベールの母メーベルが1079年に殺害された際、ロベールは母の広大な所領を相続した。 しかしこの時点ではウィリアム公爵は追加予防措置として公爵の権利によりベレームの城は公爵の兵士により守備されていた。

1087年征服王ウィリアムの訃報に接したロベールが真っ先に行ったのは彼の全ての城から公爵の兵士を追い出すことだった。

1087年の暮れ、ノルマンディー公”短袴公”ロベールは、現在弟のウィリアム二世が就いているイングランド王の地位にロベール公を就けようとする陰謀(その陰謀話ではロベール公が熱望され、支持されているという)を聞かされる。

ロベール・ド・ベレームはその弟ヒューとロジャー(またはアルヌルフとも)とともにその謀反に加担した。主な参加者はバイユー司教オド、ボローニュ伯爵ユスタシュ三世、ロベール・ド・モウブレー、ジョフリー・ド・モウブレー、ロジャー・ド・モンゴメリー伯爵とその他の不満分子諸侯であった。

翌1088年の復活祭の初め頃、反乱の火の手が上がり王とその臣下の領地を侵略した。ロジャー二世・ド・モンゴメリーはウィリアム・ルーフス王の交渉により反乱側から王側へ寝返りをうった。

最終的にロベール・ド・ベレームはロチェスター城を守備する反乱軍の中にいた。ウィリアム・ルーフス王が町を封鎖し、二つの城を建設すると、守備側は’名誉ある降伏’と所領の維持、王への臣従についての交渉を始めた。

王はこの交渉条件を拒否した。王は激怒しており、まず裏切り者を’この地上より綺麗さっぱり消し去るか’吊るし首にすることを望んでいた。ロジャー・オブ・モンゴメリーとその他の大領主たちが王との仲裁にたち、最終的に7月末までにロジャー二世伯爵が息子達に代わって王と反乱軍の間の不完全な’名誉ある降伏’で妥協した。ルーフス王はしぶしぶながら反乱者たちの生命と身の安全、および移動の保証を与えた。

ノルマンディーへの帰国の船で偶々ロベールはヘンリー伯爵(のちのヘンリー一世王。この度の反乱には加担していなかった)と一緒になり、船旅の間意気投合していたが皮肉なことに彼らは後に敵対する運命にあった。彼らが共有したのは彼らよりも先にノルマンディーへ帰還していたバイユー司教オドの激しい怒りだった。

ヘンリーはちょうど二十歳で今やオドの主君となっていることに、強く憤慨していた。また、ロベール・ド・ベレームはノルマンディー領内で思うが儘自由に振舞える強力で危険かつ破壊的な勢力であった。

ロベール公爵に強い影響力を持つオド司教はヘンリーとその旅の仲間ロベール・ド・ベレームは今や公爵に対抗してウィリアム・ルーフス王と共謀しているに違いないと確信していた。ヘンリーとロベールは、下船するや捕えられ共に司教管理下に置かれて投獄された。ヘンリーはバイユーに、ロベールはヌイイ-ルベック(現在のヌイイ-ラ-フォレ)に。

息子の投獄を知ったシュールズベリー伯爵ロジャー二世・ド・モンゴメリーは直ちにノルマンディーへ赴き、配下の城全てを対公爵戦に向けて備えさせた。このときモンゴメリー家は公爵に対して反逆している状態となった。

オド司教は公爵に対して、その権力に基づきロベール・ド・ベレームの城全てを取り上げたうえ軍を募って征伐に向かうべきだと扇動した。ロベール公爵は最初バロンを攻撃し、両翼が敗れた後に城は降伏した。

ロバート・ド・ベレームの一族ロベール・コーレルが居住するサン-セヌリ城へ向かった。ロジャー二世伯より全てを賭けて公爵に対抗するよう命じられたロベール・コーレルは最終的に兵糧が尽きるまで抵抗した。ロベール公は激しく抵抗したロベール・コーレルに激怒しその目を刳り抜き、城兵は皆殺しにされた。この時点で公爵はロベール・ド・ベレームの他の城を奪うことに興味を失い、軍を解散してルーアンに帰還した。

ロジャー二世伯は公爵に和平の使者を送り、気まぐれな公爵が捕えている息子ロベールを解放するよう説得、最終的にロベールは解放された。しかしながらその対価としてロベール・ジロワが城代として置かれていたサン-セヌリ城は公爵に引き渡された。

ジロワ家(ヒュー・ド・グランメニルの母の実家ダショフール卿)は1060年代に反乱の処罰として取り上げられるまで長い間その城を所有していた。征服王ウィリアムがこの城およびその他のジロワ家の所領をベレーム家の一員で彼らの宿敵と考えられていたロジャー・ド・モンゴメリーに与えた。

1090年までにロベールはロベール公爵の宮廷で復権し、オーデリック・ヴィタリスは彼のことを公爵ロベールの”側近”と呼んだ。ロベールは1090年のルーアン市民の反乱鎮圧で公爵を支援し、夥しい数の市民を捕らえて獄舎へ送った。

ロバート・オブ・トリニーによると、1092年永きに渡ってベレーム・モンゴメリー家の本拠地であったドンフロンの住民はドンフロンの支配者として公爵の弟ヘンリーを招き入れた。ロベール・ド・ベレームの守備兵に何が起こったのか、また無血開城がなされたのかについて説明はされていない。加えて、ロベール・ド・ベレームは同年ノルマンディー公ではなくフランス王にベレームの所領承認を要請していた。

1094年ロベールの父ロジャー伯が死去。ロベールの弟ヒュー・オブ・モントゴメリーがシュールズベリー伯爵位とイングランドの所領を相続し、他方ロベールはすでに母から相続していたベレームの所領に隣接するノルマンディー中央部から南部にかけての豊かな地域を含む父の所領を相続した。

1096年ロベール公爵はイングランドのウィリアム・ルーフス王に公爵領の統治を預け、第一回十字軍に参加した。ロベール・ド・ベレームは幾度かの機会における奉仕でイングランド王とノルマンディー公兄弟の双方から好意を得ていた。1098年、ロベールはウィリアム・ルーフス王のため、メーヌ伯エリアス一世を捕らえるという大功を立てた。

1098年ロベールの弟ヒューが死去し、ロベールは補償として3000ポンドを支払いアランデル・レイプやシュールズベリー伯爵位を含むイングランドの亡き父の資産を相続した。ロベールは妻アグネスの相続権に基づきポンテュー伯爵位とチックヒル荘も得た。これら資産によりロベールはイングランド・ノルマンディー両域を通じて最も富裕な諸侯となった。

1100年8月ウィリアム・ルーフス王が死去し、ヘンリー一世はロベール公爵が(十字軍から帰還して)権利を主張する前に王権を奪取した。ロベールはヘンリー一世に敬意を表するためイングランドに駆け付けたが、彼とその兄弟はモンゴメリー家に対する王室の寵が終焉を迎えたことを知らされる事となった。

ロベール公爵は第一回十字軍に勝利して帰国した。オーデリックによると配下の領主たちはヘンリー王を攻めるようロベール公爵を扇動していたが、公爵はラヌルフ・フランバールがロンドン塔を脱出してノルマンディーへ逃亡してくるまで決断できずにいた。ラヌルフ・フランバールは逃亡先のノルマンディーでイングランド侵攻とヘンリー王の排除へ向けてロベール公爵に影響を与えたとみられる。

ロベール・ド・ベレームはロベール公爵による1101年のイングランド侵攻に参加した大諸侯の一人であり、彼の兄弟であるロジャー・ド・ポワトォーとアルヌルフ・オブ・モントゴメリー、および甥のモータン伯爵ウィリアム(征服王の半弟モータン伯ロベールの子。母はロベール・ド・ベレームの妹)が共に参加していた。

このヘンリー一世の排除を目的としたイングランド侵攻は、しかしながら、オールトン条約により無血の内に終結した。その条約では参加者の恩赦を求めていたが反逆者については処罰することを許可していた。ヘンリー一世がオールトン条約を遵守するつもりがない事はすぐに明らかになった。ムーラン伯爵ロバート・ド・ボーモンが戦前に助言していたのは「約束を与えて彼らを安心させ」れば「(後で彼らを)追放することができます」というものだった。

ロベールの無許可築城、とくにブリッジノース城にヘンリー一世の堪忍袋の緒が切れたのかもしれないが、ヘンリー一世はロベールとその兄弟たちに対する告発を一年がかりで収集した。

そしてヘンリーは1102年にロベールに対して一連の告発を行い、ロベールがそれら告発への反論を拒否すると軍勢を整えてロベールのイングランド領内の城を包囲・奪取した。ロベール(とその兄弟達も同様に)はイングランド内の所領と称号を失い、イングランドから追放されてノルマンディーへ帰還した。

1105年ロベールはペルシュ伯ロトルー三世とベレーム領の大部分をかけて争い、これを失った。 同年、ロベールはヘンリー一世の支持者の軍勢に攻撃され、クリスマス前にヘンリー王と和平しようとしてイングランドへ渡ったが得るものもなくノルマンディーへ帰還した。

1106年ロベール・ド・ベレームはティシュブレの戦いにおけるロベール公爵軍の指揮官の一人として後詰部隊の指揮を執っていたが、ヘンリー王軍が優勢になるとド・ベレームら後詰部隊は戦場から離脱して捕虜となることを逃れた。今やノルマンディーはヘンリー王の支配下にあり、ロベール・ド・ベレームは降伏し、ノルマンディーの所領とイエモア子爵の爵位の保持を許された。

しかし、ヘンリー王はまだロベールへの警戒を解かず、ノルマンディーの要地には王の腹心を配置した。1110~1112年の間の反乱では、ノルマンディー国境地帯の領主たちはヘンリー王の政策、特にロベール公の子ウィリアム・クリトーの親権を王が奪おうとしたことに不満を抱いていた。

オーデリックによると、1110年7月のメーヌ伯エリアス一世死後、ロベールは反乱で中心的役割を演じたという。1112年ロベールはロベール公爵の解放を交渉するためフランス王の使者としてボンネビルのヘンリー一世の宮廷へ遣わされたが、ロベールは捕えらられて投獄された。ヘンリー王は既に告発を用意していたのが明らかであった:三度召喚されたにも関わらずヘンリー王の宮廷に出仕しなかった罪、収益を横領した罪、主君への利益相反行為の罪。

技術的にはロベールは有罪となるが、しかしヘンリー王の宮廷に出仕することは間違いなく彼にとって危険であったし、収入は贈り物と看做されていたかもしれず、利益相反行為の告発は処罰に値するかどうか議論の余地があった。加えて、ロベールはロベール公爵の解放を交渉するために送られた使者として王の保護のもとにあった。

これは国際慣習法に反する行為であったが、当時のフランス王ルイ六世もヘンリー一世もお互いにあまり興味がなくその様な協定違反は処罰されなかった。しかしロベールの投獄により、ヘンリーに対する反乱は崩壊した。ロベールは余生を囚人として過ごし、その正確な死亡日は知られていない。

オーデリック・ヴィタリスはロベール・ド・ベレームの人物像を、ヘンリー一世と比較する場合には特に、年代記作者には許せないと感じられたちょっとした罪で悪役として描いている。オーデリックはロベールを”神の教会と貧者にとって貪欲かつ残酷で執拗な弾圧者・・・神の御代を通して比類なき罪深き者”と呼んだ。

デビッド・C・ダグラスからの引用によると”もしかしたら騙されやすいオーデリックは、意地悪でも嘘つきでもなかった。そしてこれらの記述は彼が特によく知る人物たち(ベレーム・モンゴメリー家)を思いやってのものであった”しかし、彼はロベール・ド・ベレームに対立する側へ強く偏向し、彼の行いを道徳的に誤って解釈し評価しているかもしれない。

オーデリックのロベールらド・ベレーム家に対する敵意の遠因は、オーデリックが所属するサン-テブルー修道院(荒廃した修道院を再興したド・グランメニル兄弟の母はジロワ家出身)の後援者であるジロワ家と、ド・ベレーム家の長年の激しい確執にある。

ロベールの祖父ギョーム・タルヴァス(ド・ベレーム)はギョーム・フィッツジロワ(エショフール卿ジロワ家。ド・グランメニル兄弟の叔父)の目を刳り抜き、身体に障害を残した。同時に教会資産を着服し、いずれの教会へも喜捨をあまり行っていなかった。しかし、ロベールの教会に対する姿勢は同時代の一般的・典型的なものであった。確かに当時の世俗支配者や他の諸侯らと比較しても悪くはなかった。R.W.サザーンによるウィリアム・ルーフス王の評価はロベール・ド・ベレームにもよく当てはまる:”彼の人生は軍事計画とそれを可能にする戦費の調達に明け暮れた。大臣がその目的を果たせなかったとき、彼はあからさまな軽蔑を見せた”

英国人名事典のウィリアム・ハントによると、ロベールの様々な残虐行為の物語は彼の死後に流布したもので、おそらく魔王の子の残酷残虐なノルマン騎士悪魔ロベールの伝説の成立に影響を与えた。メーヌでは”彼の事跡は姓を征服王の父の姓に変更されて悪魔ロベールの物語に挿入されている”

ロベールはアグネス・オブ・ポンテューと1087/9/9以前に結婚し、以下の子供を為した。

スポンサードリンク