ノルマンディー公妃グンノールの一族(1)
ノルマンディー公家

公妃グンノール

ノルマンディー公リシャール一世は公妃エマ(パリ伯ユーグ大公の娘)の死後、ノルマンディー西部出身のグンノールを側妾として迎え、のちに正妃とした。

グンノールの両親について判っているのはペイ・ド・コーに定住した家系に属している、ということだけである。 デンマーク貴族の家系という伝承もあるが、信憑性は薄い。クレポンを本拠地としたノルマンディー西部の有力なヴァイキングの一族でグンノール自身も裕福な女性であったともされる。

またリシャール一世との出会いについてのよく知られたエピソードとして、狩猟に出かけたリシャール公がとある森林管理者Forester(樵と誤解されている例もあるが、中世の時代には通常、法の執行官、弁護士、裁判官、仲裁人という広汎な職務を持つ称号であった)の館に宿泊した際、森林管理者の妻センフリーダを求めたが既に人妻であったため、未婚の妹グンノールが(提案された、とも自ら身代わりを買って出たとも)が代わりを務めた、という。

グンノール妃略系図

当時の政治的状況(ノルマンディー内部の安定化に注力していた時期)やリシャール公の婚姻政策の展開から考えると、こうした物語よりは「ノルマンディー西部の有力者との結合を図るための政略結婚」と考える方が自然に感じられる。

リシャール公とグンノール妃との間に生まれた子女はノルマンディー公家およびその家門となったほか、周辺有力諸侯との婚姻政策による同盟関係を形成した。

グンノール妃の兄弟姉妹も、あるいは有力貴族の祖となり、あるいはまた他の有力貴族との縁戚関係を築くなどノルマン貴族社会に血縁関係を広げていった。ノルマンディーの歴史の中に現れるきわめて多くの家系がグンノール妃の血筋と結び付いているのが分かるだろう。

ノルマンディー公爵家

ノルマンディー公爵家略系図

リシャール公とグンノール妃の長子で”善良公”と呼ばれ、正式にノルマンディー公爵の爵位名を使用し始めたのがリシャール二世であり、後の征服王ウィリアム一世(ノルマンディー公としてはギョーム二世)の祖父にあたる。

リシャール二世の長子が次代ノルマンディー公爵リシャール三世であるが、その治世はわずか一年ほどの短命に終わり(弟ロベールの反乱を鎮圧した直後、宴席で謎の死を遂げる。毒殺が噂された)、その弟ロベール一世が後を継いだもののノルマンディー領内の治安は乱れ近隣領主同士の抗争が頻発、ノルマンディー領内の貴族層は新たに台頭し、多くの弱小領主がノルマンディーから南イタリアやその他の地域へ追い出されていった。

こうした内乱に近い国内状態にもかかわらずロベール一世は周辺諸侯・王家への干渉を行った。ロベール一世は庶子ギョーム(ウィリアム)を後継者に指名し、聖地巡礼への旅の帰途病死した。 公爵位に就いたギョームは幼く、ノルマンディー領内は再び混乱した。

ガイ・オブ・バーガンディ略系図

ブワイヨン伯ガイ・オブ・バーガンディ(ブルゴーニュ自由伯レジナルド一世の子でノルマンディー宮廷で育った。母はリシャール二世の娘アリス。ギョーム公の従弟にあたり、女系ながら嫡出であるため公爵位継承の有力な競争相手であった)を首班とするノルマンディー西部領主たちの反乱を、フランス王アンリ一世の支援を受けたヴァル・エス・デュンヌの戦いで破って以降(フランス王アンリは敵対するようになるが)ギョーム公はその地歩を固め、のちにイングランド征服を果たし、ノルマン朝イングランド王家の開祖となる。

エヴルー伯爵家

ルーアン大司教兼エヴルー伯となったリシャール公とグンノール妃の次子ロベールに始まる。聖俗両界の地位を同時に占める事は当時として多くはないが他にも例のあることであった(これよりもしばらく前の例ではパリ伯ユーグ大公がロワール川とセーヌ川の間の地域のほとんどの領主と修道院長職を占めたことがあり、少し後の例ではギョーム公の半弟バイユー司教オドがケント伯爵を兼任した例がある)

ロベールの子リシャールがエヴルー伯爵を継ぎ、彼とロジャー・ド・トニーの未亡人との間に生まれた子がヘイスティングスの戦いに参加したウィリアムである。ウィリアムには子が無く彼の代でこの伯爵家は断絶した。

コルヴェイユ伯爵家

リシャール公とグンノール妃の三子モーガー(モージェ)に始まる。モーガーの長子モータン伯爵ウィリアム・ヴァルランはギョーム公により(些細な咎を理由に、と云われる)追放され、モータン伯爵にはギョーム公の半弟ロベールが任ぜられた。

モーガーの次子ハモ・デンタトスの子ハモ・ダピファーはギョーム公に家令として仕え、その子孫はイングランドに渡ってグレンヴィル家の祖となる。

イングランド王家

リシャール公とグンノール妃の長女で”ノルマンディーの宝石”と讃えられたエマはイングランド王アスリングに嫁ぎのちの証誓王エドワードを儲ける。アスリング王の死後はクヌート王の妃となり、次代のハーディクヌート王を儲ける。ノルマンディーとイングランドを関係づけ、後の歴史展開の重要なポイントとなった人物であった。

ブルターニュ公爵家

リシャール公とグンノール妃の次女アワイズはブルターニュ公爵ジョフリー一世に嫁ぎ次代公爵アラン三世・パンティエーヴル伯爵オドらを儲けた。

ジョフリー一世の姉妹ジュディスはリシャール二世に嫁いでおり、リシャール二世とジョフリー一世は二重に義兄弟の関係となっている。

ジョフリー一世は1008年にローマへの巡礼の旅の途上で病死。跡を継いだアラン三世は当時11歳と幼く、アワイズ妃が摂政として公領を治めることとなったがアワイズは兄リシャール二世を頼ったため、ブルターニュ公爵領は事実上、ノルマンディー公爵の属国化することとなった。

後にロベール一世がノルマンディー公となった際の混乱に乗じてアヴランシュを攻めノルマンディーの支配に反抗したがロベール一世の軍勢が後背地を攻略し挟撃される状態となったため、共通の叔父ルーアン大司教兼エヴルー伯爵ロベールの仲介によりアラン三世がロベール一世に臣従の誓約(事実上の降伏)をすることで和平した。

ブロワ・シャンパーニュ・シャルトル伯爵家

リシャール公とグンノール妃の三女モードはブロワ・シャンパーニュ・シャルトル伯爵オド二世に嫁いだが若くして子を儲けずに死去し、その持参金であるドルーの町の一部を巡ってオド二世とリシャール二世が争いを起こした。ロベール二世王(オド伯の母と結婚しており義父になる)による仲裁でドルーはオドの支配下に置かれた。


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