ノルマンディー公爵 ロベール一世”悪魔公”

Robert the Magnificent (1000/6/22-1035/7/1,3)

ウィリアム征服王の父。ノルマンディー公爵リシャール二世の次子で先代公爵リシャール三世の同母弟。母はブルターニュ公爵コナン一世の娘、ジュディス。

反乱

父リシャール二世は生前、兄のリシャール三世を後継公爵と定め、ロベールにはイエモワ伯の地位を与えることとした。

リシャール二世が1026年8月に死去するとリシャール三世が公爵となったが、そのすぐ後ロベールは兄公爵に対して反乱を起こす。だがこの反乱は迅速に鎮圧され、ロベールは忠誠の誓いを強制された。

リシャール三世の死についてロベールの関与が疑われた。証拠は何もないが、ロベールが最大の受益者であることは確かであった。

ノルマンディー公国内

ロベールの兄に対する反乱は公国内を不安定化させ、近隣領主同士の私戦の嵐が吹き荒れた。

ロベールの統治の結果として新たな貴族層が公国内で台頭した。同時に多くの弱小貴族がノルマンディーから新天地を求めて南イタリアやその他の地へ去っていった時代でもあった。

公爵位を称して敵対した者たちへの復讐ができるようになると、ロベール一世は叔父のルーアン大司教兼エヴルー伯ロベール二世に対して軍を向けた。

つかの間の休戦の隙に大司教はノルマンディーから亡命したがロベール公爵に対する破門とノルマンディー全土に対する職務停止命令を宣告した。この措置はロベール大司教が帰国し伯爵位が回復されるまで解除されなかった。

ロベール公爵はさらに他の有力な聖職貴族も攻撃した。彼の従兄弟であるバイユー司教ユーグ三世・ド・イヴリーは長期間ノルマンディーから追放された。

ロベールはまた、フェカン修道院に属する数多の教会財産も押収した。

対外関係

公国内が混乱しているにもかかわらず、ロベールはフランドルのボールドウィン五世とその父で息子をフランドルから追い出そうとしているボールドウィン四世との間の親子間の内乱に介入した。

ロベールがボールドウィン四世に対して出来る限りの軍事的支援を約束すると、ボールドウィン五世は義理の父であるフランス王ロベール二世の支援を受け、1030年に父と和平した。

ロベールはまた、フランス王家内の対立にも介入し、お気に入りの弟ロベールに父フランス王ロベール二世の跡を継がせようとする母后コンスタンスと、これに対抗するフランス王アンリ一世に退避場所を提供した。このロベールの支援に対してアンリ一世はヴェクサンを割譲することで報いた。

1030年代初頭、レンヌのブルターニュ公爵アラン三世がその勢力を伸ばし、モン=サン=ミシェル周辺部への野心を見せた。

ドルの陥落とアヴァランシュを襲撃するアラン公の企みを撃退した後、ロベール公はアラン公への大規模な遠征に着手した。しかしアランは彼らの共通の叔父であるルーアン大司教ロベールに要請し、ロベール大司教によりロベール公と”その臣下”アラン三世との和平を調えた。

ロベールの従兄弟でイングランド王アスリングと叔母エマの間の子であるエドワードとアルフレッドの兄弟がノルマンディーの宮廷へ亡命していたが、ある時点でロベール公は彼らの代わりにイングランド侵攻に着手することを考え始めた。しかし、言い伝えによると”風がよくない”ためこの企みは実行されなかった。

「Gesta Normannorum Ducum」(歴代ノルマンディー公の事績)の年代記作者によるとクヌート王がロベール公へエドワード・アルフレッドとのイングランド共同統治を提案する使節を送って来た。ロベールはイングランド侵攻延期後、聖地巡礼から戻るまで決断を延期することを選択した。

巡礼帰途の死

ロベール公の教会に対する態度は叔父がルーアン大司教に復帰して以来顕著に変化した。 教会との亀裂を修復するため、彼と彼の家臣たちが教会から没収した財産は回復され、1034年までにはフェカン修道院から奪われた財産もすべて返却された。

庶子ウィリアムを後継者として指名するとロベールはイエルサレムへの巡礼に旅だった。

年代記作者によると、ロベール公はコンスタンティノープル経由でイエルサレムへ到着した後、帰路重病となり1035/7/2ニカイアにて死去した。公の子ウィリアムは齢八歳にして公爵位を継承した。

歴史家のウィリアム・オブ・マームズベリーによると、後年(数十年後)ウィリアム征服王は父公爵の遺骸を埋葬のためノルマンディーへ持ち帰る任務で使者をコンスタンティノープルとニカイアへ派遣した。遺骸は回収されたが帰路、南イタリアのアプーリアまで達したところで使者はウィリアム王自身の死を知った。このため使者らは公爵の遺骸をイタリアに再埋葬することにした。


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