コンシュ卿ロジャー一世・ド・トニー

Roger I of Tosny or Roger of Hispania (? - 1040)

ロジャー一世はラウール一世・ド・トニーの子でコンシュの領主。 ノルマン貴族トニー家の一員でイベリアのレ・コンキスタ(領土回復)に参加した。

出自

ラウール一世の兄ユーグがルーアン大司教であった時に教会領を弟へ割譲し、トニー家の勢力を拡大した。確かな根拠となる史料に欠けるが、スカンディナビア系のトニー家の祖は初代ノルマンディー公ロロの叔父の家系に連なり、(公爵家と)外見的な特徴が似通っていたという。

経歴

1013年ロジャー一世と父のラウール一世はノルマンディー公リシャール二世に仕えてティリエール城を守備していた。 数年後、理由は定かではないが親子は国外追放された。父のラウール一世は南イタリアのアプーリアで名声を得た一方、子のロジャー一世はイベリアでイスラム教徒との戦いに参加していた。

北イベリアの小さなノルマン人キリスト教国家はレ・コンキスタのための強力な軍隊を設立するために志願兵や冒険家を歓迎していた。ロジャー一世はバルセロナ伯爵ラモン・ボレイの死後バルセロナ伯領の摂政を務めていた伯爵夫人エルメシンダ・オブ・カルカソンヌ(”背曲がり伯”バランゲー・ラモン一世の母)に召喚され、彼女を助けてイスラム教徒と戦った。ロジャー一世はエルメンシンダの娘アデレードと結婚するため、イスラム教徒を攻め立て幾つかの町や城を奪った。

アデマール・ド・シャバンヌは多かれ少なかれ伝説めいたロジャー一世のイベリアでの業績を標す呼び名を贈り、ロジャー一世は”ムーア((人)喰い”という仇名を得た。アデマールは日々ロジャー一世が捕えるイスラム教徒の捕虜を再集計し、そして捕虜たちの眼前で二人に一人を惨殺し茹でてその肉の半分をもう一人に食べさせた。そしてもう半分をアデマールやその仲間たちが食べるために彼の天幕へ運び込ませる振りをした。それからロジャー一世はこれらの恐ろしい噂を広めるため捕虜の幾人かを解放した。

1024年以前、ロジャー一世とその父ラウール一世はリシャール二世の許しを得てノルマンディーへ帰還し、ラウール一世はそのすぐ後に死去した。

ロジャー一世・ド・トニーはコンシュ・アン・ウシュを開発し、サント-フォワ教会(1026年以前)、その後フェカン修道院出身の修道士を招聘してサン-ピエール-ド-カスティヨン修道院(1035年)を建設した。これらの僧院はノルマンディーで最初に領主により創設されたもののうちの一つであった。その設立特許状ではトニー卿がコンシュとその森の周りに小さな所領を与えたことが明らかになっている。

1035年ノルマンディー公ロベール一世の死去はノルマンディー公国の騒乱の時代の幕開けだった。内戦は拡大し、ロジャー一世(彼の近隣領主たちとの関係は既にキナ臭かった)はその主役の一人となった。ノルマン年代記作者によるとトニー卿は後にウィリアム征服王となる新公爵が庶子であることを理由にこれに仕えることを拒否した。

彼は近隣領主、特にハンフリー・オブ・ヴィリーズ(グンノール公妃の甥でボーモン家の祖)の領地を略奪することにより公爵側の弱点に対して優位に立った。ハンフリーはロジャー一世・ド・トニーに対するため息子のロジャー(ド・ボーモン)を遣わした。1040年後半ごろロジャー一世・ド・トニーは戦死し、二人の年長の息子(ヘルバートとヘリナンド)も戦傷により数週間後に死去した。

トニー家と近隣領主間の平和が回復した。未亡人のゴッドヒルデはエヴルー伯リチャードとの結婚を強制された。

家族と子孫

イベリア時代にバルセロナ伯の娘アデレードと結婚
後妻のゴッドヒルデはロジャー一世・ド・トニーの死後エヴルー伯リチャードと再婚

子供として

ほか息子一人(ベルヴォア卿となったロバートか?)

ラウール二世の子孫は1204年ロジャー四世のとき、ジョン王に従った結果として大陸側領地を失い一族はイングランドに再起をかけて逃れたが1309年に男系が途絶えた。

スタフォード卿となったロバートの家系は今日ドレイクロウのグレスリー准男爵家として続いている。

エヴルー伯爵家とコンシュ卿ド・トニー家の家系
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