ブルターニュ公爵・レンヌ伯爵 アラン三世

Alan III of Rennes(French: Alain III de Bretagne) (997-1040/10/1)

ブルターニュ公爵ジョフリー一世とアワイズ・オブ・ノルマンディー(ノルマンディー公リシャール一世の娘)の子。 ウィリアム公爵の父ロベール一世の従弟にあたる。

アラン公がまだ幼いうちに父公爵が亡くなったため、伯父ノルマンディー公リシャール二世がブルターニュの後見する間、母アワイズが摂政として領国を統治した。

青年期とノルマンディーとの葛藤

1018年アラン公はベルタ・オブ・ブロワ(ブロワ伯オド二世の娘)と結婚した。 ノルマンディー公リシャール三世が1026年8月に死去すると弟のロベール一世がノルマンディー公位を継いだ。

アラン公はノルマンディーの混乱がブルターニュがその支配から脱する好機であると考えた。 1030年代初めロベール一世はドルの攻略に成功し、アブランシュを攻撃していたアラン公の軍勢は前後から挟撃され撃退された。

ロベール公のノルマンディー艦隊による海からの侵攻を受け、アラン公は(ロベール公と共通の叔父にあたる)ルーアン大司教ロベールに和平の仲介を依頼。ロベール大司教はモン=サン=ミシェルにてアラン公がロベール公へ臣従する形で二人の甥の間の休戦を調えた。のちにロベール公が聖地への巡礼に出発するにあたっては幼いウィリアムの顧問(の一人)としてアラン公が指名された。

ノルマンディーのウィリアムの顧問団の一人として

アラン公はまたメーヌ伯”ウェイクドック(ジャンキー)”ハーバート一世のル・マン司教アヴェスガード・ド・ベレームとの戦いを支援し、伯爵とともにラフルテ-ベルナールのアヴェスガードの城を攻めて破壊しアヴェスガードを逃走させた。

1037年ルーアン大司教ロベールが死去し、暫定的にノルマンディーの統治を任されていた幼いウィリアムの顧問団に指名されて残っていたのはアラン公と彼の従兄弟ギルバート(・ド・クリスピン、ブリヨンヌ伯)だけだった。

彼らは空席となったルーアン大司教にモーガー(ウィリアム公爵の父の異母弟=叔父)を指名し、その兄弟ウィリアム(同左)をアルク伯としてウィリアム公への彼らの助力を得ようとした。

1040/10/1にノルマンディーのヴィムティエで近郊の反乱者の城を包囲中にアラン公が突然死した。年代記作者オデリックによると無名のノルマン人により毒殺された、ということである。

子供達

ベルタ・オブ・ブロワとの間に二人の子供があった。 後1046/5/14未亡人ベルタはメーヌ伯ヒュー四世と再婚した

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