ルーアン大司教・エヴルー伯爵ロベール二世

Robert II (989-1037)

ルーアン大司教・エヴルー伯爵ロベール二世はノルマンディー公家出身の有力な高位聖職者であり、代々のノルマンディー公(父リシャール一世から甥の子ウィリアムまで五代に渡って)の忠実な支持者だった。

ノルマンディー公家の重鎮

ノルマンディー公リシャール一世と二人目の妻グンノール妃との間の子として生まれる。 誕生後間もなく父リシャール公によりルーアン大司教・エヴルー伯に指名された。

ロベールは傍から見る限り大司教と伯爵という両方の役割を特段不満もなく受け入れていた。彼は常に政界での勢力を拡大し、ノルマンディー公の支持勢力の有力者となっていた。

ロベールは父リシャール一世、兄リシャール二世の教会内での味方であり続け、兄の死後は実質的に公爵家一族の長老となっていた。

甥のリシャール三世が一年ほどでその波瀾で短命な治世を終え、その弟ロベール一世が公爵になるとロベール大司教は新公爵を制止するのに多大な労力を必要とした。

ロベール一世との対立

1028年ロベール大司教は甥の新公爵ロベールの軍勢に包囲されノルマンディーから追放された。 ロベール公はまたロベール大司教とともに新公爵の権威に疑問を呈していたバイユー司教ヒュー・ド・イヴリーも攻撃し追放していた。

ロベール大司教は逃亡先のフランスから甥のロベール公の破門とノルマンディーの(聖職者の)職務停止を宣告した。

結局最終的には大司教と公爵は和解し、公爵が大司教位と伯爵位の回復と大司教の全資産の返却を実行したことで破門と職務停止は解除された。

さらに公爵とその家臣たちが教会から没収した財産は回復され、1034年までにはフェカン修道院から奪われた財産もすべて返却された。

1033年までロベール公は又従兄弟のブルターニュ公アラン三世に対して大規模な派兵を企図していたが、共通の叔父であるルーアン大司教ロベールが帰還して仲裁したことにより休戦が成立した。

ロベール公はその生の最後の数年、過去の過ちを悔い改めルーアンの貧しい教会への援助と聖堂の再建に尽力した。

対立から和解へ

1035年ロベール公はイエルサレムへの巡礼を決意した。庶子ウィリアムを後継者に指名し、大司教に育成と保護を委ねるよう手配した。

ロベール大司教は公との約束を全うし1037年死去するまでウィリアムの摂政として公国を良好に統治したが、その死後、瞬く間にノルマンディーは無法の地と化したのだった。

子供達

スポンサードリンク