初代ペンブルック伯爵
ギルバート・フィッツギルバート・ド・クレア

Gilbert "Strongbow" fitz Gilbert de Clare (1100 - 1148/1/6)

"強弓"とあだ名されたギルバートは1138年にペンブルック伯爵位を創設した。

クレア卿ギルバート・フィッツリチャード・ド・クレアとアリス・ド・クレアモントの間の子としてトンブリッジで誕生。

彼には自分自身の所領も財産も無かったが、大変有力な人物たち、とくに叔父のネザーウェント卿ウォルター・ド・クレアやロジャー・ド・クレアらときわめて親密な関係を築いていた。

1136年ギルバート・フィッツギルバート・ド・クレアはノートルダムの教会を含む町の一部が焼き討ちにあったエクムに向かって遠征軍を率いていた。しかし彼は途中でポンテュー伯ウィリアム三世の軍勢に行く手を遮られ、多大な被害を出しつつ乱戦を脱出した。

ギルバートは父方の伯父ウォルターとロジャーから封領とノルマンディーのビヤンフェット、オルベックの両城を含む不動産を相続しており、イングランドの直接授封者たる諸侯の一人であった。

彼はネザーウェントの領主権とストリグル(のちのチェプストー)城を保有した。

スティーブン王はギルバートをペンブルック伯爵に叙爵し、ペヴェンシーのレイプ(ウェセックスの地域区分)と城を与えた。

1141/2/2のスティーブン王のリンカーン防衛戦の後、ギルバートは6月にロンドンを奪回したマチルダ女王の下に参集した人々の中にあった。

しかし1141年の後半にスティーブン王が再戴冠した際にはカンタベリーにもいた(戴冠式に出席していた)

彼はその後スティーブン王に対するジョフリーの企みに加わったが、その陰謀が瓦解した1142年の後半には再びスティーブン王とともにオックスフォード包囲戦の陣中にあった。

1147年ギルバートは甥の二代ハートフォード伯爵ギルバートが降伏した際、その持ち城を要求したがスティーブン王に拒否されたため、反乱軍側に合流した。すると国王は最寄りのギルバートの城に進軍し彼を捕らえた。しかし、翌年彼が死去する前には彼とスティーブン王との間には和平が成立した模様である。

ギルバートは1130年までに初代レスター伯爵兼ムーラン伯爵ロバート・ド・ボーモンとエリザベス・ド・ヴェルマンドワの娘イザベル・ド・ボーモンと結婚したとみられる。イザベルはこれ以前ヘンリー一世王の寵姫であった。

ギルバートには以下の子があった。

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