二代サリー伯爵
ウィリアム・ド・ワレンヌ

William de Warenne (? - 1138/5/11), 2nd Earl of Surrey

二代サリー伯爵ウィリアム(二世)・ド・ワレンヌは同名の初代伯爵の子であり、サリー伯爵よりもワレンヌ伯爵と記されることが多い。

父の初代伯爵は征服王が最も信頼し厚遇した諸侯の一人で1088年に死去する際にはイングランドでも三番目か四番目位に豊かな大諸侯であった。

1088年ウィリアム(二世)は父のイングランドと、上ノルマンディーのモルティメールやベランコンブルの城を含むノルマンディーの所領を相続した。

しかしウィリアム(二世)の国王への奉仕は父のそれと同様ではなかった。

1091年クルシー防衛戦においてロベール・ド・ベレームとノルマンディー公ロベール二世(征服王ウィリアムの長子)に対し、ウィリアムはヒュー・ド・グランメニルに加勢した。

1093年ウィリアムはスコットランド王マルコム三世の娘マティルダに求婚。マティルダ王女は代わりにイングランド王ヘンリー一世と結婚し、このことはこの後数年に渡りウィリアムがヘンリー一世の不興を買った遠因となったかもしれない。

1101年にノルマンディー公ロベール短袴公がイングランドへ侵攻した際にはウィリアムはロベール公に味方した。しかしロベール公はあっという間にヘンリー一世と和睦し、ウィリアムはイングランドでの爵位と領地を喪失してノルマンディーへ亡命した。

ウィリアムはロベール公に対し、公爵に代わって多大な労力を費やしたにも関わらず、その見返りに得たものはイングランドにおける財産の全ての喪失だったと不満を訴えた。 ※ロベール公はヘンリー一世から多額の賠償金を得ることを見返りとして撤退していた

ロベール公は1103年イングランドへ戻りヘンリー王にウィリアムの伯爵位を復旧するよう説得した。ロベール公は1101年の侵攻後受け取っていた年3000マークの補償金を放棄しなければならなかったもののこの説得は成功し、ウィリアムは爵位と領地を復元された。

ヘンリー王はウィリアムの忠誠をより強固なものとするため、大勢いる非嫡出の娘の一人とウィリアムの結婚を画策した。

だがカンタベリー大司教アンセルムスにより、一方が四世代、他方が六世代の範囲内で関係している両者のこの結婚は(※教会法に反するため:自然法に基づく近親婚の禁止とは異なる)禁じられた。

1106年ティシュブレの戦いにおいてウィリアムはヘンリー王側の武将の一人としてロベール公に対峙した。 のち、ウィリアムは忠誠を証明したことでヘンリー王の宮廷でもより重要な人物となっていた。

1110年ロベール公の子ウィリアム・クリトーがエリアス・オブ・サン-サーンス(ウィリアム・クリトーの傅役。グンノール公妃の姪の子孫とされるルーアン子爵リシャール・ド・リールボンヌの子ランバート・オブ・サン-サーンスの子)とともに逃走したのち、ド・ワレンヌは上ノルマンディーの自身の領地のすぐそばにあったサン-サーンスの没収された領地を与えられた。

クリトーの帰還が成功することは少なくともド・ワレンヌがこの新しい領地を失うことを意味するため、このようなやり方でヘンリー王はド・ワレンヌの忠誠を確実なものにしようとした。

1118年フランス王アンリ一世の孫娘エリザベス・ド・ヴェルマンドワ(レスター伯爵ロバート・ド・ボーモンの未亡人)と結婚し、ウィリアムはついに念願の王家の血脈を得た。

ド・ワレンヌ家系図

1119年ブレミュルの戦いにおいてウィリアムはヘンリー王側として戦った。

1135年二代サリー伯爵ウィリアム・ド・ワレンヌはヘンリー一世王の臨終の床に臨席した。 王の死後、ノルマンディーに擾乱が発生し、ウィリアムはルーアンとペイ-ド-コー防衛のため派遣された。

ウィリアムはルイス修道院の記録によると1138/5/11に死去し、同修道院の参事堂の父の足元に埋葬された。 彼の妻エリザベス伯爵夫人は彼よりも長く生き、1147/7までに死去した。

エリザベスとの間に三人の男子と二人の娘が生まれた。

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