ムーラン伯爵兼初代ウースター伯爵
ワレーラン四世・ド・ボーモン

Waleran de Beaumont (1104 - 1166/4/9), Count of Meulan, 1st Earl of Worcester

ワレーラン四世・ド・ボーモンは初代レスター伯爵ロバート・ド・ボーモンとエリザベス・ド・ヴェルマンドワの間に生まれた双子の内の一人。

彼は同時代の文書において姓を付けずに”ロバート伯爵の子ワレーラン”としてのみ呼称されている。

出自と前半生

ワレーランは1104年に、ムーラン伯爵(1107年にはレスター伯爵位も創設)ロバート・ド・ボーモンの双子の子の兄として生まれた。双子の弟は二代レスター伯爵となったロバート・ド・ボーモンである。

ボーモン家系図3

1118年7月の父の死により、双子はヘンリー一世王の後見下に置かれた。 彼らは1120年に成人が宣言され、彼らの父と国王との間で調整済の取決めにより、父の遺領の相続が許されるまで国王の監督下に置かれた。

この取決めにより、ノルマンディー国境からセーヌ川上流地域のムーラン伯爵領と、一族のノルマンディーでの主要領地ボーモン・ル・ロジェとポン-オードメールをワレーランが相続した。

彼の広大な領地は、セーヌ川左岸に位置してヴァットゥヴィル城を囲むブロトンヌの森を含んだ。 一族の取決めの一部として、ワレーランはスターミンスター・マーシャル荘の中心となるドーセットの広大な領地も相続した。

反乱と投獄

1122年の後半、ワレーランは、ロベール短袴公の子ウィリアム・クリトーのノルマンディー公爵位請求を支持するエヴルー伯爵アモーリー三世・オブ・モンフォールと共に陰謀に引き込まれた。

だがこの陰謀は国王の察知するところとなり、ワレーランとその若い同輩はモンフォール-シュル-リスルの反乱軍中枢に向かう国王軍の先制攻撃による不意打ちで捕えられてしまった。

ワレーランはブリヨンヌの自城に本拠地を置いて国王に対して反乱勢力を結集していた。

1123年10月フランスの親族や同盟者による軍事的支援にも関わらず、彼はノルマンディー沿岸のポン-オードメールの要塞を失った。

1124/5/25の襲撃ののち、ワレーランは義理の兄弟であるヒュー二世・ド・シャトーヌフ(妹オーブリーの夫)、ヒュー四世・ド・モンフォール-シュル-リスル(妹アデリーンの最初の夫)、ブレヴァル卿ウィリアム(二世・ド・ラヴェル。妹モードの夫。アセリン・ド・イヴリーの子)らと共にヴァットゥヴィル城の救援に赴いた。

帰路の隊列はブールテルードとボワシー-ル-シャテルの途中でヘンリー一世直属の騎士と歩兵の軍勢により襲撃された。国王側の指揮官はウィリアム・ド・タンカーヴィルやオド・ボーレンなどの説がある。

ワレーランが配下の先頭に立って騎馬突撃を試みようとしたとき、彼の馬を射殺されたため国王直属軍は最終的に勝利した。

ワレーラン配下の城は1124/4/16にワレーランが国王により強制されて家宰のモーリン・デュ・ピンを降伏を促す使者として送るまで抗戦を続けた。

ワレーランの領地は没収され、彼は当初ルーアン投獄され、のちシュロップシャーのブリッジノース城、最終的にはウォリンフォード城に収監されていた。

彼は1129年に理由は不明ながら釈放された。彼は宮廷で活発な役割を続け、双子の弟と共にヘンリー王の死の床に臨席した。

ワレーランは恐らく1135年12月の誰がノルマンディーとイングランドを継承すべきかについての諸侯による議論に関与していた。

ノルマンディー統監

スティーブン王の即位は彼に驚きをもたらしたかもしれないが、1136年の復活祭前には彼も既に新国王への忠誠を誓っていた。

宮廷ではワレーランは国王のまだ幼い娘マティルダの婚約者であり、彼女の持参金としてウースターの伯爵領と都市を与えられていた。

復活祭ののち、ワレーランは国王より公国領統監に任ぜられてノルマンディーへ赴いた。 9月、彼はヘンリー一世の娘マティルダの夫アンジュー伯ジョフリーの侵攻を撃退するためのノルマン諸侯軍を指揮した。

ワレーランは反乱軍の首魁ロジェ・ド・トニーを捕らえる事も出来た。彼は春までノルマンディーに滞在しその後イングランドへ帰還した。

翌年、国王のノルマンディー巡幸に随行し、年末、これまでのウィンチェスターやソールズベリーの司教たちの宮廷での優勢に対する逆転に着手し始めるまでにイングランドへ帰国した。

彼と彼の一族はスティーブン王の宮廷での君寵を独占しはじめ、グロスター伯爵ロバートらの一派を冷遇した。グロスター伯らは報復として伯爵の半妹マティルダ女皇の権利主張を用いることにした。

1138年6月ワレーランはノルマンディーにて再びアンジュー伯の侵略軍の撃退に成功していた。 彼は大勢のフランス騎士の援軍を動員するためにフランス宮廷における豊富な人脈を利用した。

ワレーランが二つ目の称号ウースター伯爵位を与えられたのは恐らく1138年のことだった。

その年の末、彼は同地への来着を記すためシトー派ボーデスリー修道院を創設した。同年、彼の弟ヒューがベドフォード伯爵位を与えられ、他の親族も同様に栄誉に浴した。

1139年の復活祭前、ワレーランは彼の従兄弟にあたるフランス新王ルイ七世への外交使節としてパリにあった。

帰国すると、彼はソールズベリー司教ロジャーの宮廷派閥の打倒を強行した。司教とその一族は6月に逮捕され、彼らの財産と領地は没収された。

内乱

1139年グロスター伯爵ロバートのイングランド帰国によりスティーブン王と女皇マティルダ支持者との間の内戦が始まった。

グロスター伯が支援した最初の攻撃の一つは、ウースターのワレーランのイングランド国内拠点への強襲だった。

1139/11/7、(ウースターの)街は攻撃を受け略奪された。ワレーランはスードリーとテュークスベリーの反乱軍中枢に対して猛烈な報復行動を行った。

ワレーランは1141年のリンカーンの戦いに参加していた。彼は戦いに敗れたのち逃れた王党派の伯爵たちの一人であった。

彼は逃れたが、国王は捕まりブリストルで投獄された。ワレーランは恐らくウースターで代官のウィリアム・ド・ビーチャムの背信に対処するため数か月間を戦った。

1148年にヘレフォード司教がこの城の領主権を主張することとなったヘレフォードシャーのビーコンを彼が押収して要塞化したのはこの時だったかもしれない。

少なくとも、1141年の夏の終わりにはアンジュー伯の軍勢がワレーランのノルマンディーの領地を奪ったとの知らせが届き、彼は闘争を諦めた。

ワレーランは女皇マティルダに降伏し、王室領に設立されていることを理由としてボーデスリー修道院の所属が彼女に帰するものである事を受け入れなければならなかった。

しかしながら、ワレーランはアンジュー伯ジョフリーの宮廷に受け入れられイングランドとノルマンディーの彼の領地は安堵された。スティーブン王の娘マティルダとの間の、彼の最初の結婚は彼女が1137年にロンドンで幼くして(4歳)死去したため終了した。

1142年頃ワレーランはエヴルー伯爵アモーリー・ド・モンフォールの娘アグネスと二度目の結婚をした。

この結婚の結果として、彼はペイ-ド-コーの領地とイル-ド-フランスのグルネー-シュル-マルヌ卿の地位を得た。

ワレーランは既に1139年頃死去した母の持参金であったセーヌのエルブフの領主権を取得していた。

1141年の政治的転身にもかかわらず、ワレーランは年末には年初よりもよりかなり裕福になっていた。

1143年4月ワレーランはアンジュー伯ジョフリーと共にルーアンの包囲戦に従軍した。その間、彼はエマンドゥヴィルとサン-スヴェ教会の郊外を侵略し焼き討ちし、多くの男女が焼死した。

ワレーランはノルマンディーの家宰で従兄弟のロベール・デュ・ヌーブールとの間の以前からの盟約により、ノルマン人貴族の指導者としての地位を固めていた。

しかしながら、同時にフランス宮廷に対するワレーランの心情は変化してきていた。

1146年の復活祭に第二回十字軍を呼びかけるためベズレーに滞在し、1147年の4~6月には法王とルイ七世の会見のためのパリでの有力者集会に出席した。

6/29に彼はウォルムスでルイ七世と落ち合いアングロノルマン十字軍に指導者の一員として参加した。

ワレーランはシリアへの十字軍に同行しダマスカスを目前にしたその不幸な結末に遭遇した。

彼はルイ王よりも先にパレスティナを離れたように見られ、故国へは海路をとった。

ワレーランは帰途の航路のどこか、恐らくプロバンスの海岸で難破した。 彼はもしこの遭難を生き延びることが出来たらシトー派修道院を建設すると誓い、やがて誓約の履行としてサン-マリー-デ-ヴォートまたはル・ヴァランス修道院を建設した。

失墜

ノルマンディーでのワレーランの強大な影響力は1151年まで続いたが、ヘンリー新公爵は彼と疎遠だった。

彼はカペー朝宮廷との間で時間稼ぎをし、ムーラン伯爵である彼の主君にあたるルイ七世の戦争を支援するという致命的な誤りを犯した。

(ルイ王の)支援でワレーランは従兄弟のラルフ二世伯爵が幼少の間、広大なヴェルマンドワ伯爵領の後見人となる大きな利益を得たが、それは彼を没落に導くものでもあった。

1153年の後半、甥で敵であるロベール・ド・モンフォール(妹アデリーンとヒュー四世・ド・モンフォールとの間の子)により待ち伏せされ、彼のイングランドとノルマンディーの領地がヘンリー公爵の友人や臣下たちにより剥奪されている間、ロベールにより囚われていた。

ウースター伯爵領は制圧され、ウースターシャーの城は1155年に破壊された。

ワレーランは解放されたものの、ノルマンディーにおけるその権勢は地に落ち、彼の甥によるモンフォール-シュル-リスル奪還の企みは屈辱的な失敗であった。

ワレーランはヘンリー二世の宮廷においては除け者となり、ヘンリー二世に対抗してルイ七世を支援していた1160~1162年の間にノルマンディーの領地と城も失った。

彼は晩年は、公国内で地主や判事として細々と生計を立てるものだった。彼の活動についての最後の記録は1165年の終わり頃、グルネー-シュル-マルヌ修道院に関する彼の事務決済のものだった。

彼の死に先立つこと20日前、彼は先祖代々の修道院であるノルマンディーのポン-オードメール南部プレオーのサン-ピーター修道院に入信し、そこで1166/4/9または10に修道士として死去した。彼は修道院参事会堂の一族の眠る傍に埋葬された。

人物

ワレーランは政治以外の面で十二世紀の重要な人物であった。彼は自由七科と哲学の教育を受けた文学者であった。

ベック-エルルワンの修道士ステファン・オブ・ルーアンによる彼への哀歌では彼がラテン語の詩を詠んだことが示され、1142年、その所有権が認められる以前にムーラン修道院の記録文書を個人的に調査したことが語られている。

彼の双子の兄弟の様に、彼も熱心な文学者であったと思われ、多くの作品が残っている。

ワレーランはまた、ジェフリー・オブ・モンマスが1136年その著作「ブリテン王の歴史」の初版を彼に捧げたように、文学者の後援者でもあった。

いずれものちに国王に奪われたものの、ワレーランはウースターシャーのボーデスリー(1139年頃)と、ノルマンディーのル・ヴァランス(1150年頃)にシトー派修道院を創設した。

彼はプレオーの先祖代々のベネディクト会派修道院(サン-ピーター男子修道院とサン-レジャー女子修道院)の有力後援者でもあった。

彼は他にベックエルルワン修道院の擁護者を引き受け、またムーランの修道院の後援者やボーモン・ル・ロジェに創設した他の修道院の後援者でもあった。

彼はグルネー-シュル-マルヌにベネディクト会は修道院を設立し、ポン-オードメールでは現存する大病院を寄付した。

結婚と子孫

ワレーランは最初、1136年3月にスティーブン王とボローニュ伯爵夫人マティルダ・オブ・ボローニュの間の娘マティルダと結婚した。だがマティルダは1137年に4歳で死去。

1141年2月、エヴルー伯爵アモーリー三世・ド・モンフォールの娘アグネス・ド・モンフォールと二度目の結婚をした。

彼はアグネス・ド・モンフォールとの間に以下の子を儲けた。

ボーモン家系図4
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