二代レスター伯爵
ロバート・ド・ボーモン

Robert de Beaumont (1104 – 1168/4/5) , 2nd Earl of Leicester

”ド・ボーモン”という姓は系図学者によって付されたものであり、当時彼については”ロバート伯爵の子ロバート”としてのみ知られていた。

14世紀の年代記作者ヘンリー・ナイトンは彼のことを”レ・ボッシュ(せむしの)”ロバートと注記した。

出自と前半生

ロバートはムーラン伯爵兼初代レスター伯爵ロバート・ド・ボーモンとエリザベス・ド・ヴェルマンドワの間に生まれた双子の子の弟である。

ボーモン家系図3

一卵性か二卵性のいずれであるかは知られていないが、同時代の人々が彼らを双子と認識していたことから恐らく一卵性であったと考えられる。

この双子の兄弟、ワレーランとロバートは、1118年6月の彼らの父の死後(この時ロバートは父の二つ目の称号レスター伯爵位を相続していた)すぐに国王の宮廷に引き取られた。

ドーヴァー海峡を挟む両岸の彼らの領地は彼らの継父サリー伯爵ウィリアム・ド・ワレンヌが率いる保護者団に委託された。

1119年、彼ら兄弟が法王カリストゥス二世との会談のためノルマンディーへ赴くヘンリー一世王に随行した際、王は彼らと枢機卿団との哲学論議を焚き付けた。

双子は共に学問の心得があり、アビントン修道院は後にロバートの学び舎であったことを主張した。これは不可能ではないがその主張は完全には信じられない。

現存する天文学の論文が”レスター伯爵ロバートなる深い学識を有する実務家が法則について多くの業績を成し遂げた”という貢献を成し得たのはこのロバートに他ならない。

彼は死去するにあたり、レスターに彼が創設した修道院に彼自身の聖詠を残した。その修道院では15世紀後半までその文書庫にその聖詠を保管していた。

聖詠が存在するという事実は当時の多くの貴族と同様にロバートも自らの礼拝堂で時課を行っていたことを示している。

宮廷で

1120年、ロバートは成人を宣言され、イングランドにおける亡父の領地の大部分を相続し、一方で双子のもう一人がフランスの領地を相続した。

1119年のブルタイユ家からの没収以降、蟄居させていたアミス・ド・ゲール(1075年伯爵たちの反乱の東アングリア伯ラルフ・ド・ゲールの孫)とロバートとの1121年の結婚により、彼はブルタイユとパシー-シュル-ウール(ともにノルマンディー)の広大な荘園を与えられた。

ロバートは十年以上にわたる多大な時間と労力を費やし、ブルタイユの厄介な独立領主たちを自身の領土へと統合していった。

ロバートは彼の双子の兄ワレーランのヘンリー一世王に対する1123~24年の大反乱には加わらなかった。

彼の兄は1129年まで投獄されていたが、彼自身は国王の宮廷に引き続き出仕していた。

その後双子の兄弟はヘンリー一世王の宮廷でしばしば共にあるところを見られることになった。

ロバートの所領は全土に広がった。1120年代と1130年代に彼はレスターシャーの領地を合理化しようとした。 レスターシャーに存在したリンカーン司教区とチェスター伯爵の不動産は強制的に押収された。 このことはナニートン、ラフバラ、メルトン・モーブレー、マーケット・ハーバラに囲まれたミットランド中部のロバートの領地群の結合を強固にした。

1135年、双子はヘンリー王の臨終の床に侍っていた。王位継承問題におけるロバートの行動は不明だが、彼は1136年の復活祭前にスティーブン新王の宮廷に参加するという兄の決定を明らかに支持していた。

新王の治世下の最初の二年間、ロバートはノルマンディーにあって彼のブルタイユの荘園に対する権利を主張する他者と戦っていた。

この軍事行動により1136年6月ロバートのノルマンディー領に敵対者の一人から得たポン-サン-ピエール城が加わった。

1137年末からロバートと兄ワレーランはスティーブン王の宮廷での政争に巻き込まれてゆき、その中で1141年初めに失脚するまでワレーランは権勢を誇った。

ロバートは兄ワレーランの、国王法廷判事ソールズベリー司教ロジェ・オブ・ソールズベリーに対する政治的攻撃に協力した。

イングランド内戦

1139年9月に勃発したイングランド内戦でロバートはヘンリー一世の庶子で女皇マティルダの主要な支援者であるグロスター伯爵ロバートと衝突した。

ドーセットにある彼のウェアハム港と領地はこの内戦の最初の攻撃でグロスター伯に押収された。

この内戦中、国王は反乱中のヘレフォードシャーの統監として伯爵位を創設させるため、ロバートにヘレフォードの城や街を与えた。これがロバートの二つ目の伯爵位の創設になるかどうかについては研究者によって議論されている。

恐らく1139年後半、ロバート伯爵は彼の父が参事会を務めたレスターシャーのサン-マリー-ド-カストロ参事会管理教会を、聖アウグスチノ修道会派の大修道院として(レスターの)市の北門の外の牧草地に参事会から莫大な寄付を添えて再興した。

1141/2/2のリンカーンの戦いでスティーブン王は捕えられ虜囚となった。ワレーラン伯爵は夏に至るまで精力的に王党派として戦い続けたが、最終的に女皇マティルダに降伏し、女皇の夫君アンジュー伯ジョフリーと和平するためノルマンディーへ渡海した。

ロバート伯爵は1140年以降アンジュー伯軍の侵略を防衛するためノルマンディーに居続けており、兄の降伏条件について交渉を行っていた。

彼のノルマンディーでの戦いが終結するや、そのノルマンディーにおける領地は没収され、女皇の支持者たちの褒賞として用いられた。

スティーブン王の治世の残りの期間、ロバートはイングランドの自領に在った。

彼は名目上、スティーブン王の支持者であったが、彼とスティーブン王の間には接触はほとんど無かった様にみられ、国王は1153年までレスター修道院の創設を認めなかった。

1141年から1149年までの間、ロバート伯爵は主にチェスター伯爵ラヌルフ二世との私戦に明け暮れた。 詳細は不明であるが、最終的にレスターシャー北部とチェスターの戦略的要衝マウントソレル城の支配を巡って熾烈な争いが行われたことは十分に明確であると考えられる。

1147年にグロスター伯爵ロバートが死去すると、レスター伯爵ロバートはイングランド国内諸侯間の和平締結の動きを主導し、その手続きは女皇マティルダのノルマンディーへの出発のため急がされて1149年までに完了した。

この間、ロバート伯爵は双子の兄のウースター伯爵領を監督下に置き、1151年にはその都市を押収しようとする国王の企みに介入した。

ロバート伯爵とヘンリー公爵

1153年1月の女皇マティルダ子息ヘンリー公爵のイングランドの到着は、ロバート伯爵にとって絶好の機会であった。 恐らくその年の春にヘンリーとロバートは交渉を持ち、1153年5月までにはロバートのヘンリー側への転向とノルマンディーでのロバートの領地回復について合意に達した。

1153年6月、ヘンリー公爵は五旬節をレスターシャーの宮廷で祝い、1153年11月ウィンチェスターにおいてヘンリー公爵とスティーブン王の間に和平が成立するまで常に行動を共にした。

ロバート伯爵は1154年1月、公爵と共にノルマンディーへ渡海し、ロバートのノルマンディーでの城や領地を回復した。

和解の一環としてヘンリー公爵はイングランドとノルマンディーにおける首席家令(大家令 Lord High Steward)の地位をロバートに認めた。

1154年10月恐らくヘンリー公爵がヘンリー二世として即位して間もなくロバート伯爵はイングランドの首席判事としての務めに就いた。この役職により国王が不在か否かに関わりなく、ロバート伯爵が行政および司法の監督権を握ることとなった。 彼は数多くの統治行為においてその能力を発揮し、その部下にはかって共にスティーブン王に仕えたリチャード・ド・ルーシーがいた。

ロバート伯爵は死去するまで14年間近くその地位にあり、イングランドで新興のアンジュー家官僚団の尊敬を獲得した。 彼の意見は学識ある聖職者たちに引用され、彼の研究は高く評価された。

1168/4/5、彼の臓物がその街の病院に埋葬されているため、恐らくノーサンプトンシャーのブラックリー城でロバート伯爵は永眠した。

彼は死の床にあってレスターの律修司祭の地位を与えられ、彼が創設し建設した大修道院の主祭壇の北に埋葬された。

教会の支援者

ロバートは数多くの宗教施設を創設し後援した。レスターシャーにレスター修道院とガレンドン修道院を創設し、ウォリックシャーにフォントヴロー派ナニートン修道院、バッキンガムシャーにラフィールド修道院、ノーサンプトンシャーにブラックリー病院も創設した。

彼は1139年に一旦停止したのち1164年頃レスター修道院の附属教会としてサン-マリー-ド-カストロ参事会管理教会を再興した。

1139年頃ウェアハム教会をノルマンディーのリラ修道院の附属修道院として再興した。

彼のノルマンディーでの主要な創設活動はブルタイユの森のル・デゼール修道院およびブルタイユの病院の創設であり、ブルタイユ荘で最も古く格式の高いベネディクト会派リラ修道院の大口支援者であった。

彼はまた聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)にレスターシャーのオールド・ダルビーを寄付し、騎士団はその地をダルビー支部の創設に利用した。

結婚と子孫

ロバートは1120年以降に東アングリア伯ラルフ・ド・ゲールの子ラウール二世・ド・モンフォール(ド・ゲール)の娘アミスと結婚した。両家(ド・ゲールおよびブルタイユ)ともイングランドでの相続財産は1075年の反乱を通して失っていた。

彼らの間に以下の子があった。

ボーモン家系図5
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