ボーモン・ル・ロジェ卿兼ポン-オードメール卿
ロジェ・ド・ボーモン

Roger de Beaumont (c. 1015 – 29 November 1094), feudal lord (French: seigneur) of Beaumont-le-Roger and of Pont-Audemer

ロジェ・ド・ボーモンはノルマンディーのボーモン・ル・ロジェとポン-オードメールの封建領主であり、また征服王ウィリアムの側近でもあった。

彼はハンフリー・ド・ヴィリーズ(ノルマンディー公妃グンノールの姪の子)とアルブリーダ・ド・ラ-アイユ-オーブレの間に生まれた子であり、ノルマンディー公爵家の遠縁に繋がっていた。

彼はノルマンディーのリスル川の上流、公爵領の首都ルーアンの南西約46kmに位置するボーモン・ル・ロジェに城と本拠地を置いた。

彼はまた、セーヌ川と共通の河口からリスル川を上流へ遡ったときに最初に架かっている橋の付近に建設されたポン-オードメールの領主でもあった。

ロジェには”顎鬚”というあだ名が付けられていた。ノルマン人の習慣では顎鬚は剃るものだが彼は顎鬚を蓄えていた。

この特徴から、バイユー・タペストリーの三十二面の中でヘイスティングスの戦い前夜の宴の席で公爵ウィリアムの右隣に座り食事に祝福を与えているバイユー司教オドのさらに右隣に描かれている人物はロジェ・ド・ボーモンであると考えられている。


プランシェ(18~19世紀英国の劇作家ジェームズ・プランシェ)はロジェについて”ノルマンディーで最も高貴かつ富裕で重要な領主”と書き記している。

彼は幼少の公爵に反逆したことのない年長の親族であることがこの厚遇から窺われ、頻繁な反乱や侵略の撃退とノルマンディーの統治にあたってウィリアム公爵が信頼を置く側近貴族群を構成していた。

歴史家フランク・マクリンは、ウィリアム公爵には父方の親族たちが信頼できないことが明らかだったため、オド司教やロベールなどの母方の半弟たちや義理の兄弟、およびグンノール公妃の姉妹の子孫である親族たちを重用する傾向があったことを分析している。

12世紀の歴史家ウェイスは、”イングランド侵攻時、ロジェはその叡智を買われてリールボンヌの大評議会に召喚された。しかし、彼は老体であることを理由に遠征には参加しなかった”と書き記した。

ロジェは戦闘には参加しなかったが、遠征費用の大部分を負担することには躊躇せず、自腹で海峡渡海用の軍船60隻を提供した。さらに同時代のいくつもの記録に記されているようにロジェの長子で継承者のロバートがヘイスティングスの戦いにおいて勇戦した。

結果としてロジェの年長の息子たちは褒賞としてイングランドの領地を気前良く与えられ、最終的には征服王の子らによりイングランドの伯爵となった。

ウェイスの記述はそれ故にバイユー・タペストリーでヘイスティングスの宴にロジェが描かれていることに疑問を投げかけるものかもしれない。しかしながら、ロジェが公爵の重要な側近であり続けたなら彼が海峡を渡っていたことは有り得ることで、恐らく戦線後方の司令部で戦略的助言を行っていたのだろう。

ボーモン家系図2

ロジェは1048年頃かそれ以前に、子の無かったムーラン伯爵ヒュー二世の姉妹で女相続人であるアデリーン・オブ・ムーランと結婚した。

ムーランは最終的に彼らの長子ロベールが相続して1081年にムーラン伯爵となった。 ロジェとアデリーンの子には以下の者がある。

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