ウォーメゲイ卿
レジナルド・ド・ワレンヌ

Reginald de Warenne (1121/1126 - 1179) , Lord of Wormgay

レジナルド・ド・ワレンヌは12世紀後半のイングランドのノルマン人貴族で、国王の官僚であった人物である。 彼はサリー伯爵の三男であり、当初は兄の領地の管理者として人生を歩み始めたが、のちある領主の相続人である娘と結婚した。

彼の義理の父が死去すると彼はノーフォークのウォーメゲイ卿となった。ヘンリー二世王の治世下でレジナルドは法務長官の一人であり、1170年のベケット論争で若干の役割を演じた。彼は1179年に死去し、後継者たる子息と娘たちを残した。

レジナルドは(上述のように)1138年に死去した二代サリー伯爵ウィリアム・ド・ワレンヌの三男であった。 母はフランス王の姪イザベル(エリザベス)・ド・ヴェルマンドワであった。

彼は1121年から1126年の間の生まれである。レジナルドの兄弟には三代サリー伯爵ウィリアム・ド・ワレンヌ、ホワイトチャーチ卿ラルフ・ド・ワレンヌがいる。

レジナルドらの母イザベルには前夫ロバート・ド・ボーモンとの間に二代レスター伯爵ロバート・ド・ボーモン、ムーラン伯爵兼ウースター伯爵ワレーラン四世・ド・ボーモンらの子があり、レジナルドと彼の兄弟たちは彼らと半兄弟の関係となった。

レジナルドの姉妹には、ウォリック伯爵ロジャー・ド・ボーモンまたのちにウィリアム・オブ・ランカスターと結婚したグンドレーダ、ハンティンドン伯爵ヘンリーと結婚したエイダがいる。

エイダの夫ヘンリーはスコットランド王ダビット一世の一人息子であり、彼女はマルコム四世とウィリアム一世という二人のスコットランド王の母となった。

彼の生存中にもう一人のレジナルド・ド・ワレンヌが存在していたが、恐らく非嫡出子の半弟と考えらえれる。

前半生

レジナルドの名が最初に歴史上の記録に現れるのは彼の父の特許状に彼の名が記された1138年頃のことであった。レジナルドは1147年まで彼の兄たちの領地の主要な管理者の一人であった。レジナルドはまたノーフォークとサセックスの兄の荘園から与えられた彼自身の領地も有していた。

彼の兄が十字軍に参加している間、レジナルドはルイスの町の住民の商人ギルド設立の権利を与えられた。その権利は、兄が十字軍から帰還した後も認められた期間まで続くものだった。

三代サリー伯爵ウィリアムは1148年初頭十字軍遠征中に死去し、ウィリアムの伯爵位と領地はウィリアムの娘イザベルに渡り、彼女はスティーブン王の次子ウィリアムと結婚した。レジナルドは新伯爵に仕え続け、また国王への奉仕も始めており多くの国王勅許状に名前が現れていた。

レジナルドは最終的に新伯爵の主要な相談役、側近となった。

国王の官僚として

レジナルドは1153年のウェストミンスター勅令でベランコンブルとモルティメールの城を与えられた。その勅令ではスティーブン王の生存する子息ウィリアムの権利が確認されていた。

ウィリアムはイングランドの王位請求権を放棄し、見返りとしてこれらの権利を保証された。イングランドの王位はスティーブン王の死後アンジュー伯アンリに渡ることで合意された(ウォリンフォード条約)。レジナルドはこの勅令に署名を行っている。

レジナルドは国王の官僚として奉仕を続け、新国王の勅許状の多くに署名を行った。

レジナルドは1157年にチチェスター司教ヒラリー・オブ・チチェスターとバトル修道院長ウォルター・ド・ルーシーの係争案件をヘンリー二世が審判した際の臨席判事の一人だった。

1164年レジナルドはイングランドの教会支配に関するヘンリー二世王と新カンタベリー大司教トマス・ベケットの間の長きに渡る闘争の一部であるクラレンドン法に携わった。

レジナルドはまたヘンリー二世王の娘マティルダ王女がザクセン公”獅子公”ハインリヒ三世へ嫁ぐためドイツへ赴くのに随伴した。

彼はリチャード・オブ・イルチェスター、ウィリアム・バセット、デーン人ガイ・オブ・ウォーザン・ホリー・クロスらと共に1168年から1170年にかけて巡回裁判所を実施した四人の主要な判事の一人だった。

1168年ヘンリー二世は上級法廷弁護士としてレジナルドを採用した。これはこの職位に就いた歴史上確認できる最初の人々の中の一人であった。

これら行政上・司法上の役割のほか、1169年には財務府裁判所判事(Treasurer長官=大蔵卿/Chancellor監査官/barons判事/Remembrancer主任事務官/他の職で構成される財務府裁判所の一役職で実際の審理を行った。職名の邦訳語は当サイト作者が職務内容から勘案したもの)、1170年から1176年までサセックスの州長官を務めた。

1170年レジナルドは逃亡先からイングランドへ帰還していたトマス・ベケットの抑制に関与していた。

レジナルドと共に活動したのはヨーク大司教ロジェ・ド・ポン-レヴェック、ロンドン司教ジルベール・フォリオ、ソールズベリ司教ジョスリン・ド・ブーン、ケント州長官ガーヴァス・ド・コーンヒルそしてラヌルフ・ド・ブロらであった。

当時レジナルドは国王裁判所判事であった。彼はベケットがイングランドへ帰還した1070/12/1にサンドウィッチでベケットを迎えた一団の一人であった。

ガーヴァス・ド・コーンヒルに率いられたレジナルドのグループは、大司教が三聖職者(上記のヨーク大司教、ロンドン司教、ソールズベリー司教らのこと。ヘンリー二世の長男若ヘンリーが共治王として戴冠する際、本来カンタベリー大司教の役割であるはずの王の戴冠を、逃亡中のベケットに代わって執り行った)を破門したことで国に諍いを引き起こしたと非難したが、ベケットは問題を検討し翌日回答すると答えることにより彼らをなだめた。

翌日、彼らはベケットによって破門された司教たちから送り込まれた聖職者数人を伴っていた。この会見からは他の方途を検討するというベケットの提案以外には何ら成果がなかった。レジナルドは1170年12月後半に重ねて国王とベケットの間の行き違いの解決を試みたが成果は上がらなかった。

1173年国王のため、レジナルドはリチャード・フィッツナイジェル、ニコラス・ド・シジロらと共に王室領の一部の税額を評価する仕事に従事し、バッキンガムシャー、ベドフォードシャー、オックスフォードシャー、ケント、サセックスの税額を査定した。

1173~74年の反乱の間には、レジナルドはヘイスティングス城代として国王に味方した。

結婚・家族・死

レジナルドはノーフォークのウォーメゲイ卿ウィリアム・ド・ウォーメゲイの娘で女相続人であるアリスと結婚した。

義父ウィリアムは1166年に死去し、義父の領地を相続する権利のためレジナルドは国王から466ポンド少々を賦課された(死亡税)。

義父の死により彼はウォーメゲイ卿またはウォーメゲイ男爵となった。この領主権は14と4分の1騎士封(Knight's fee:騎士一人を維持するのに必要な封領規模の単位であり、1000エーカーから5000エーカー位で土地の生産力など諸要因により変動した)の価値があり、大部分はノーフォークとサフォークに存在した。領地の中心地はノーフォークのリン(現在のキングズ・リン)にあった。

1178年のミカエル祭(9/29)から1179年の初めまでのどこかの時点でレジナルドは公職を辞し、彼の一族が創設したルイス修道院で修道士となった。彼が引退した際、財務府は10年以上ほったらかしにしてきた国王からの借金の返済を求めて圧力をかけてきた。

レジナルドは1179年に死去し、子息のウィリアム・ド・ワレンヌが相続した。

息子のほか、レジナルドには数名の娘がいた。娘の一人グンドレーダは三度結婚し、その相手の最初はロジャー・ド・ヴァローニュの息子ピーター、次がウィリアム・ド・クルシーの息子ウィリアム、最後がヘンリー・ホースの息子ジョフリーであった。

もう一人の娘のアリスはミールトン城代ピーターと結婚した。

もしかするとキャロウ修道院で尼僧となったミュリエルは三人目の娘かもしれない。 また、ファイフ伯爵ダンカンと結婚したエラも彼の娘かもしれない。

死亡する際にもレジナルドはまだ義父の領地を相続するために賦課された死亡税の大部分は未払いであった。 歴史家のエドモンド・キングはレジナルドを”恐るべき一族の黒幕”と呼んだ。

レジナルドは多数の修道院に土地や贈物を寄進した。これらの中にはド・ワレンヌ家が創設したルイスとキャッスル・エイカーの両修道院、および寄進を行ったキャロウ、クラーケンウェル、ビナムの各修道院が含まれる。

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