三代サリー伯爵
ウィリアム・ド・ワレンヌ

William de Warenne, 3rd Earl of Surrey (1119–1148)

三代サリー伯爵ウィリアム・ド・ワレンヌは同名の二代伯爵ウィリアム・ド・ワレンヌの長子であり、母はフランス王の姪(アンリ一世の孫娘)にあたるエリザベス・ド・ヴェルマンドワである。 彼は無政府時代をスティーブン王側として戦った。第二回十字軍に参加。

まだ幼かった1137年にノルマンディーでスティーブン王に仕えたウィリアムは、当初戦いを避けようとした若い貴族たちの内の一人だった。スティーブン王は脅し透かし手を尽くしたが彼ら貴族たちに戦わせることはできなかった。

ウィリアムの父二代伯爵が1138年に死去し、彼はサリー伯爵位を相続した。

1138年の復活祭の頃、彼は半兄の初代ウースター伯爵ワレーラン・ド・ボーモンとともにイングランド王とフランス王の間の条約批准のため外交使節としてパリに赴いた。

1141/2/2、彼と半兄ワレーランはリンカーンの戦いにおいて再びスティーブン王の陣中にあったが、敵軍の最初の突撃で敗走した。

彼らはともにマティルダ女帝に寝返ったが、スティーブン王が釈放されると再び王の下へ寝返った。ウィリアムの名は1141年後半のカンタベリーの王の勅書の中に現れる。

ウィリアムは従兄弟のフランス王ルイ七世とともに1146年ヴェズレーで十字軍の誓いを立てた貴族の一人であり、翌年第二回十字軍の先陣を率いた。

ウィリアムは十字軍が聖地へ向けてアナトリア(現トルコ)を横断進軍する中、カドマス山の戦いにおいて戦死した。

1147年の12月、十字軍(フランス-ノルマンディー連合軍)はエフェソスにたどり着いた。彼らはドリュラエウムの戦いで多大な損害を被った神聖ローマ帝国軍の残党と合流した。軍勢は南西トルコに進軍し1148/1/3~4、ルーム・セルジューク朝とビザンティン帝国の境界のラオデキヤで敗戦した。

1/6、カドマス山地区で待ち伏せしていたトルコ軍と再び戦いとなったが、軍勢の他の部分と分離されていたためそこには歩兵と非戦闘員しかいなかった。ルイ王とその護衛であるテンプル騎士団員と貴族たちはトルコ軍に無謀な突撃を行った。

ウィリアムを含む大部分の騎士は殺害され、ルイ王は裸で命からがら逃げだした。残軍は遅れてアダリアの沿岸都市に到着した。この戦いはルイ王の従軍司祭オド・オブ・ドゥイユにより彼の著書であるDe Profectioneの68~127ページに記述された。


ウィリアムはフランス王アンリ一世の曽孫であり、また二代レスター伯爵ロバート・ド・ボーモン、ムーラン伯爵ワレーラン四世・ド・ボーモン、初代ベドフォード伯爵ヒュー・ド・ボーモンの半弟である。

ウィリアムはアデラ(ポンテュー伯爵ウィリアム・タルヴァスと、ブルゴーニュ公オド一世の娘エラの間の娘)と結婚した。夫婦には娘が一人あり、彼女イザベルが相続人となった。

イザベルは最初スティーブン王の次男ウィリアム・オブ・ブロワと結婚しブロワは(ワレンヌまたはサリー)伯爵位を継いだ。

ブロワが子を為さずに1159年10月に死去した後、イザベルはヘンリー二世の半弟エメリ(アンジュー伯ジョフロワの非嫡出子)と結婚、エメリが(ワレンヌまたはサリー)伯爵位を継いだ。

エメリはド・ワレンヌの姓を名乗り、彼らの子孫が伯爵位を継承した。

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