三代レスター伯爵
ロバート・ド・ボーモン

Robert de Beaumont (? - 1190), 3rd Earl of Leicester

三代レスター伯爵のロバート・ド・ボーモンは1173年から1174年にかけてのヘンリー二世王に対する反乱でヘンリー若王の腹心となったイングランド貴族であり、”白い手のロバート”とも呼ばれた。

彼はヘンリー二世王の忠実な支持者であった二代レスター伯爵ロバート・ド・ボーモンの子であり、イングランドとノルマンディーで父から広大な領地を相続していた。

若ヘンリーの反乱が1173年4月に終息した際、ロバートはノルマンディーのブルタイユにある自分の城へ逃れた。

反乱勢力の目的は公国の支配の獲得であったが、ヘンリー二世は自ら軍勢を率いて城を包囲しに来た。ロバートは逃れ、ブルタイユは9月の25または26日に陥落した。

ロバートはフランドルに赴いてその地で大規模な傭兵軍を編成し、1173/9/29、サフォークのウォルトンに上陸した。

彼は初代ノーフォーク伯爵ヒュー・バイゴットの軍勢と合流し、ミッドランドでイングランドを二分してレスターのロバートの城を包囲する国王軍の弱体化を狙って西へ進軍した。

しかしながら、彼らの進軍は国王派によって阻まれ、10/17ベリー-セント-エドマンズ近郊のフォーナム付近でフォーナムの戦いに敗れた。

ロバートは妻やその他大勢とともに虜囚となった。ヘンリー二世はロバートの称号と領地を剥奪した。

他の囚人のほとんどが釈放された後も、1177年1月までロバートは虜囚として留め置かれた。

国王は優位な立場にあり、慈悲深く振舞う余裕があった。

ロバートは釈放後まもなく領地と爵位を回復されたが、城については返却されなかった。

彼の城は二つを除いて破壊され、残る二つ、レスターシャーのモントソレルとノルマンディーのパシーの城は国王の保有に帰した。

ロバートはヘンリー二世王の残りの治世の間、ほとんど影響力を持てなかったが、リチャード一世が即位すると君寵は蘇った。

彼は1189年リチャード一世の戴冠式において国家の剣を運ぶ役目を与えられた。

1190年ロバートはパレスティナへの第三回十字軍に参加したが、帰途ドゥラスにおいて客死した。

ロバートはウィリアム・ド・グランメニルの娘でドームズディ・ブックのイングランドの領主ヒュー・ド・グランメニルの曽孫(あるいは孫)にして最後の女相続人ペトロニラと結婚した。 夫婦には以下の子供があった。

ボーモン家系図5
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