ノルマンディー公妃グンノールの一族(5)
ド・ワレンヌ家系

ド・ワレンヌ家はフランス、イングランド、ウェールズ、アイルランドにおいて広大な所領を有するアングロノルマン伯爵家であり、その名はノルマンディーのディエップから数マイル離れたカレー(ペイ-ド-コー)のヴァレンヌ川および同名の町から採られている。

一族のノルマンディーにおける古い本拠地はヴァレンヌ河畔のベランコンブル城であり、それに加え、創世期の主要人物ウィリアム・ド・ワレンヌの忠実な軍事的貢献に対する褒賞としてノルマンディー公ウィリアムより更にモルティメール城が与えられた。

ウィリアム・ルーフス王の時代に初代サリー伯爵となったウィリアム・ド・ワレンヌは征服王ウィリアムの曾祖母グンノール公妃の姪の子孫とされており、イングランド侵攻期ヘイスティングスの戦いにおける戦功によりイングランドにおいておよそ300カ所に及ぶ領主権を与えらえれた。

これには彼のフランスにおける所領に加えシュロップシャー、エセックス、サフォーク、オクスフォード、ハンプシャー、ケンブリッジシャー、バッキンガムシャー、ハンティンドンシャー、ベドフォードシャー、ノーフォーク、リンカシャー、ヨークシャー、およびサセックスの領地が含まれた。

ワレンヌ卿は征服王がノルマンディーへ帰還している間のイングランドの副主席判事に指名された。彼の主要な居城はサセックスのルイス城、ノーフォークのエイカー城、ヨークシャーのコニスバラ城、ノルマンディーのベランコンブル城とモルティメール城である。

ウィリアム(ド・ワレンヌ)はグンドレーダ(初代チェスター伯爵”フランドル人”ジャーボット・オブ・オーステルゼーレの妹。征服王ウィリアムの娘とする伝説があるが概ね否定的)と結婚し、二代サリー伯爵となった父と同名のウィリアム・ド・ワレンヌを儲ける。

二代サリー伯爵はイザベル(エリザベス)・ド・ヴェルマンドワ(ヴェルマンドワ伯爵の娘でフランス王フィリップの姪)と結婚した。ド・ワレンヌの紋章はヴェルマンドワ伯の紋章を継承している。

二代伯の娘エイダはスコットランド王ダヴィッドの長子ハンティンドン伯爵ヘンリーと結婚し、共にスコットランド王となったマルコム四世とウィリアム一世の母となった。

三代サリー伯爵ウィリアム・ド・ワレンヌは無政府時代、はじめスティーブン王派として、のちモード女帝派として戦った。

1147年三代伯はフランス王ルイと共に十字軍遠征に参加し、ラオディケアでサラセン人の攻撃により戦死した。彼の心臓はイングランドへ持ち帰られ、ルイス修道院に埋葬されたという。この時点でワレンヌ家の男子直系は断絶した。

三代伯の娘で相続人のイザベル・ド・ワレンヌはスティーブン王の子ボローニュ伯爵ウィリアムと結婚した。 ボローニュ伯ウィリアムの死後、イザベルは1163年にヘンリー二世王の半弟アメリと結婚した。

アメリは妻の権利により姓と紋章と領地を得て四代サリー伯爵(サリー伯爵位の代数については前夫ウィリアムの扱いについて見解の相違があり、本記事においては一旦アメリを四代目扱いとして記述する)となり、ド・ワレンヌ家はプランタジネット王家の庶流となった。

アメリは法皇の認可の下行われた異母兄ヘンリー二世王による1169年のアイルランド侵略に従軍し、同年中の多くの勅許状に署名が残っている。

彼は甥で国王となった獅子心リチャード王およびジョン王の戴冠式において剣持の名誉を得た。

また彼は”ヘンリー王の兄弟ワレンヌ伯爵アメリ”として枢密院の一員、国王法廷の判事、財務府裁判所判事の一人で、1206年のサセックスとサリーの州長官でもあった。

彼はジョン王にマグナ・カルタへの署名を進めた助言者の一人であり、国王との血縁関係(叔父甥の関係であり、かつ舅婿の関係でもあった)により”congnatus regis(国舅)”と呼ばれた。

アメリの跡を継いだ五代伯爵ウィリアムは最初アランデル伯爵ウィリアム・ドービニーの娘モードと結婚し、のちにペンブルック伯爵ウィリアム・マーシャルの娘でノーフォーク伯爵ヒュー・バイゴットの未亡人モードと結婚し、二人目の妻との間に子の六代伯爵となるジョン・ド・ワレンヌが生まれた。

六代伯爵の母モードはウェールズのティンターン修道院に埋葬されたが、その心臓はルイス修道院の主祭壇に納められた。

父の死の時点で六代伯ジョンは五歳であり、王妃エレノアの伯父リッチモンド伯爵兼サヴォイ伯爵ピーター・オブ・サヴォイの後見下に置かれた。

1247年十二歳のとき、彼はマーチ伯爵兼アングレーム伯爵ヒュー・ド・リュジニャンとヘンリー三世の母でジョン王の未亡人イザベル・ダングレームとの間の娘と結婚した。

これによりサリー伯爵はヘンリー三世王、コーンウォール伯爵リチャード、(スコットランド王アレグザンダー二世の)王妃ジョーン、(神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の)皇后イザベラ、二代ペンブルック伯爵ウィリアム・マーシャルらと義兄弟の間柄となり、彼らのアイルランドの領地はのち彼の子孫により相続された。

その娘エレノアはアニックのパーシー男爵ヘンリー・ド・パーシーと結婚しパーシー一族との繋がりを生み、子息のウィリアムはオックスフォード伯爵ロバート・ド・ヴィアの娘と結婚し、ド・ヴィア家とも縁戚となった。ウィリアムは相続前に馬上槍試合で命を落とし、その子(六代伯の孫)ジョンがサリー伯爵位を継いだ。

モーティマー家系との関係

モルティメール城に因んだ姓を持つド・モルティメール家(イングランドに渡りモーティマー家)の祖ロジェ・ド・モルティメール(ロジャー・ド・モーティマー)は初代サリー伯爵ウィリアム・ド・ワレンヌの伯父にあたり、ともに公妃グンノールの姪の家系とされる。


※ロジェ・ド・モルティメールとラヌルフ・ド・ワレンヌ兄弟の父母については別説もある

ド・ボーモン家系との関係

二代サリー伯爵の妻イザベル(エリザベス)は初代レスター伯爵ロバート・ド・ボーモンの未亡人であり、ド・ボーモンとの間にムーラン伯爵ワレーラン四世、二代レスター伯爵ロバート・ド・ボーモン、初代ベドフォード伯爵ヒュー・ド・ボーモンらの母であった。

また、初代レスター伯爵の弟初代ウォリック伯爵ヘンリー・ド・ボーモンの子で二代ウォリック伯爵ロジャーは二代サリー伯爵の娘グンドレッドと結婚しており、両家系の結び付きを深めた。

スコットランド王家との関係

既述の通り二代サリー伯爵の娘エイダはスコットランド王ダヴィッドの長子ハンティンドン伯爵ヘンリーと結婚しのちに共にスコットランド王となったマルコム四世とウィリアム一世の母となった。

その後もエイダの子でハンティンドン伯爵を継いだダヴィッドの系統からロバート一世・ダヴィッド二世などのスコットランド王、アイルランド上王エドワード・ブルース、ロバート一世の娘マージョリーの子ロバート二世のスチュワート朝スコットランド王家など、代々のスコットランド王を生む源流となった。

また、六代サリー伯はスコットランド総督を務め、その娘次女イザベラはエドワード一世の後押しでスコットランド王となった(のち廃位)ジョン・ベイリャルと結婚している。


スポンサードリンク