ロジェ・ド・モルティメール

Roger de Mortemer (990 - 1074)

ロジェ・ド・モルティメールは1074年初頭頃、上ノルマンディーのペイ・ド・コーにサン-ヴィクトル-エン-コー修道院を創設。

ロジェはセーヌマリティーヌのモルティメールにあるウルアルネ川の河口の位置に初代ヘレフォード伯爵ウィリアム・フィッツオズバーンが行った築城に抗議した。この城はロジェの子孫の主要な所領となった。

彼は村と城の位置するモルテ-メア-エン-ブライの地名からとったモーティマーを称する最初のノルマン人祖先である。

1054年ノルマンディー公領のエヴルー地域はフランス王弟オド率いるフランス軍により侵略を受けた。

ノルマンディー公ウィリアム(ギョーム二世)は防衛のため”司教の息子”ロジェら配下の武将たちをオドの軍勢に対して差し向けた。

ロジェらノルマンディー軍はモルティメールの戦いの地となったセーヌ-マリティーヌのモルティメールの城の付近で王弟オドの軍勢と遭遇、夜襲によってこれに勝利しポンテュー伯爵ガイを捕虜とした。

ロジェはその後モルティメールの城を与えられ、その地名を姓とした。

しかしながら、ロジェによるモルティメール城の保有は短期間で終わった。ウィリアム公爵に対するロジェの忠誠義務違反が発覚したためである。

ロジェは公爵の敵であった”偉大なる”ラルフ三世伯爵として知られる敗軍の将便宜を提供した。ラルフ伯爵がロジェの義理の父(妻の父)であったためで、ロジェはラルフ伯爵が安全に自分の領地へ帰還できるまで三日間に渡りモルティメールの自城に匿った。

ロジェが敵に安全地帯を提供していた事実に接するとウィリアム公爵はロジェをノルマンディーより追放し、ロジェの領地・城は没収されてロジェの甥ウィリアム・ド・ワレンヌに与えられた。

最終的にロジェはウィリアム公爵から赦免を得ることができたが、モルティメールの城を取り戻すことはできなかった。ロジェの息子ラヌルフ・ド・モルティメールの代になるまでウィリアム公爵から所領を与えられることは無かった。

ロジェ・ド・モルティメールは”司教の息子”と呼ばれていた。これはロジェがクタンス司教ヒューの息子と認識されていたためだ。

ロジェの母はノルマンディー公妃(リシャール一世の妻)グンノールの姪で、ロジェの弟ラルフはワレンヌ家の祖である。

オーデリック・ヴィタリスの注釈によるとロジェはウィリアム・ド・ワレンヌと近い関係にあったが、親子ではなく伯父甥の関係であった。

ロジェはラ・ヴューとブレル川河口のメ村の相続人アドウィサと結婚した。アドウィサの父はアミアン伯爵”偉大な”ラルフ三世であり、ロジェとアドウィサには少なくともラヌルフ、ヒュー、ウィリアムの三人の子があった。

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