ノルマンディー公妃グンノールの一族(3)
モンゴメリー家系

センフリーダと娘ジョスリン

グンノール妃の姪(グンノール妃の姉センフリーダの娘)であるジョスリンはモンゴメリー卿兼イエモア子爵ロジャー・ド・モンゴメリーと結婚。

ロジャーはノルマンディー公の摂政ルーアン大司教ロベールが死去すると公爵側近のオズバーン・ド・クレポー(妻の従兄弟)らと対立、反乱に加担したが敗北してフランス王の宮廷に亡命しそのままパリで客死した。

ただし、その時点でも彼の妻はノルマンディー領内に広大な所領を保有しており、子のロジャー二世は後に新公爵の有力な側近として宮廷に地位を占めた。オズバーン・ド・クレポーはロジャーの子でロジャー二世の弟ウィリアム(公爵暗殺を企む)により殺害された。

ロジャー二世はノルマンディーに留守居役として残っていたため1066年のヘイスティングスの戦いなど初期のイングランド侵攻時にはイングランドに居なかったと見られるが、その後の征服事業の拡張段階では西北と南東のイングランド防衛の要衝(シュールズベリーとアランデル)を任された。

ベレーム家系との結合

ロジャー二世はノルマンディー南部メーヌ伯との国境地帯のベレーム、ドンフロンなどに広大な所領を有するド・ベレーム家の女相続人メーベル・ド・ベレームと結婚した。ド・ベレーム家はフランス王に幽閉されていたリシャール一世の脱出を支援した功臣イヴォ・ド・ベレームの家系である。

この結婚によりモンゴメリー/ド・ベレーム家はノルマンディー領内の中央部から南部にかけての広大な所領を有することとなった。

ド・ベレーム家との結合とイングランド征服を経てモンゴメリー/ド・ベレーム家は海峡の両岸で最も裕福な諸侯となった(イングランドではGDPの3%を占めるほどだった)

征服王の死後に起こった1088年の反乱でモンゴメリー家はノルマンディー公爵を支持する反乱者側に属したが、ウィリアム・ルーフス王の買収により寝返った。

この反乱は王による買収と首謀者のバイユー司教オドが王党派により個別撃破され捕虜となったこと、またノルマンディー公爵の来援が悪天候で間に合わなかったことにより失敗し、ロベールらロジャー二世の息子たちも捕えられたが父ロジャーの交渉により解放された。

ノルマンディーに帰国したロベールはウィリアム王との内通を疑われオド司教により投獄された。父ロジャー伯はノルマンディーに帰還してロベール公に反抗する。激しい攻防の後、和平交渉によりロベールは解放され、後年ロベールはノルマンディー公の側近としての地位を占めるようになった。

ロジャー二世の死後、イングランド内の所領と称号は次男のヒューが、ノルマンディー領内の所領および母方から相続した所領は長男のロベール(ド・ベレーム)がそれぞれ分割相続した。ただしヒューはノルウェー王との戦闘中に戦死したため、イングランドの所領および爵位は結局長男ロベールが相続して再び一本化された。

ウィリアム・ルーフス王の死後ヘンリー一世が即位してからはロベール公ともども敗戦の積み重ねにより零落し、捕虜となったロベール公の解放交渉の使者として赴いたヘンリー一世王の宮廷で逮捕・投獄され没年不詳のまま死去した。

子のポンテュー伯爵ウィリアム三世(母方の祖父がポンテュー伯爵ガイであり、母を通して相続)は1119年1月にヘンリー一世より父のノルマンディーの所領を回復されたが、1135年に再び没収された。


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