モンゴメリー卿(・イエモア子爵)
ロジャー・ド・モンゴメリー

Roger de Montgomery , seigneur of Montgomery and vicomte of the Hiémois

父ヒュー・ド・モンゴメリー(955-1056)と母シベール・ド・クレポー(1000-1046)の子として975年ノルマンディーのカルヴァドス、サン-ジェルマン-ド-モンゴメリーに生まれ、1055/2/7イル-ド-フランスにて死去。妻はノルマンディー公妃グンノールの姪ジョスリン・ド・ポン-オードメール。

サン-ジェルマン-ド-モンゴメリーとサン-フォア-ド-モンゴメリーの領主。おそらくロベール一世がノルマンディー公となった1027年にイエモア子爵に叙爵された。1031-1032年ごろのロベール公の勅許状に子爵としてその名が現れている。

1025-1027年ごろにはロベール公同様に教会財産(ジュミエージュ修道院所有のベルネーの町の半分)を侵奪、1030年には同修道院の市場を閉鎖し自領に移転させた。後に(ロベール公とルーアン大司教の和解後)これらは修道院へ返却されることとなる。

1035年にロベール公が死去すると、公の叔父ルーアン大司教兼エヴルー伯爵ロベールが摂政としてノルマンディーを統治。

ロジャーは新公爵(のちの征服王ウィリアム)の初期勅許状に単に名前だけで署名しており、この頃には子爵位同様君寵も失っていた様に見られる。

1037年ルーアン大司教ロベールが死去するとノルマンディーは無政府状態となり、ロジャーはかってのロベール公の側近の一人として反乱軍に身を投じたが自領での戦いで敗北しフランス王アンリ一世の宮廷に亡命した。オズバーン家令(妻の従兄弟で公爵の側近・法的保護者)はロジャーの帰国を許さなかった。

後にオズバーン家令はロジャーの子ウィリアム・ド・モンゴメリーにより殺害される。ロジャー自身の帰還は結局かなわず1055/2/7、亡命先のパリで客死した。

ロジャーとジョスリンの間には名前の明かになっているだけでも五名の男子があった:

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