初代シュールズベリー伯爵
ロジャー二世・ド・モンゴメリー

Roger de Montgomery, the first Earl of Shrewsbury

ロジャー二世・ド・モンゴメリーはモンゴメリー卿ロジャーの子であり、母はノルマンディー公妃グンノールの姪ジョスリン・ド・ポン-オードメール。父ロジャーはノルマンディー中央部のディーヴ渓谷を中心として広大な所領を有し、その所領はロジャー二世に継承された。

ノルマンディー公ギョーム二世(征服王ウィリアム)の側近有力諸侯であり、イングランド侵攻初期にはノルマンディー領防衛を担当しヘイスティングスの戦いには参加していなかったとみられる。(ただし、ウェイスの叙事詩「ローの詩」ではロジャー二世がノルマン軍の右翼を指揮し、1067年に征服王とともにノルマンディーへ帰還した、とされている)

後にロジャー二世はイングランド防衛の二つの要衝を任されることになり、アランデル・レイプとシュールズベリー伯爵位を与えられた。

アランデル・レイプはイングランド南部ウェセックスで大陸側からの侵入に対する防衛拠点であり、シュールズベリーはイングランド西部ウェールズ国境地帯で対ウェールズ防衛を担った。

アランデル・レイプは後に二つに分割され、一方は従来の名称アランデル・レイプのままとなりもう一方はチチェスター・レイプとなった。

1086年当時イングランドのGDPは72000ポンド程であったが、ロジャー二世の所領の収入額は2000ポンドにおよび実にGDPの3%を占めるほどであった。

1087年の征服王の死後、1088年のウィリアム二世王に対する反乱にロジャー二世も参加したが、王に説得されて寝返った。反乱は結局失敗し謀反人はイングランドの所領を失ったため、この選択は正解となった。

ロジャー二世は最初、ノルマンディーとメーヌの境界地帯の広大な所領の女相続人メーベル・ド・ベレームと結婚した。 年代記作者のオーデリック・ヴィタリスはメーベル・ド・ベレームを腹黒く残酷な女性と描写する。メーベルは1077年の12月、ビュール-シュル-ディーヴの彼女の城に乗り込んできたヒュー・ビュネル兄弟によりベッドに横たわったまま首を切り落とされて殺害された。彼らの殺害動機はメーベルが彼ら兄弟から父祖の相続財産を奪ったことによるものだった。

ロジャーとメーベルには10人の子があった。

メーベルの死後、ロジャー二世はアデレード・ド・ル・ピュイセと再婚、聖職者となった男子が生まれる。

ロジャー二世の死後、ノルマンディーにおける父母の所領は長子ロベール・ド・ベレームが相続し、イングランドの所領とシュールズベリー伯爵位は次子ヒューが相続した。ただしヒューの死後、伯爵位はロベールが相続した。

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