モルティメールの戦いは、1054年フランス王アンリ一世が臣下であるノルマンディー公爵”庶子公”ウィリアムに対して行った侵略と、それに対する防衛戦であった。
ウィリアムはイングランドの侵攻と征服により最終的に征服王ウィリアムとして知られるようになった。
現在のモルティメール付近(by GoogleEarth)ウィリアム公が公爵位に就いたのは成年前のことであった。
彼は最終的にイングランド王となるのだが、ノルマンディー公としての統治の始まりは順調なものではなく、20年に及ぶ内部抗争を経験することとなった。
年代記作者ウィリアム・オブ・ジュミエージュの記述するところでは、”公爵の保護者である教師や家令たちは皆、反逆者により殺された。”
ウィリアム公の一族には彼から公爵位を奪おうと画策する者もいた。
1046年ウィリアム公の従兄弟にあたるガイ・オブ・バーガンディに率いられた反乱が発生。 公爵はフランス王アンリ一世の助けを借り、1047年にヴァル-エス-デュンヌの戦いで反乱軍を敗退させた。
フランス王は、ヴァル-エス-デュンヌの戦いではウィリアム公を助けたが、1052年にはウィリアム公と対立することを決断し、フランス諸侯連合を率いてウィリアム公と対峙した。
王弟オド伯爵率いる大軍は、クレアモント伯爵ライナルトおよびポンテュー伯爵ガイ配下の軍団とともにフランス北東部から来襲した。この第二軍はノルマンディー東部に侵入し、広範囲を荒らし回り始めた。
ウィリアム公爵はセーヌ川西岸でフランス王軍と対峙する一方で、ウー伯爵ロベール(ノルマンディー公リシャール一世の庶子ウー伯爵ギョームの子)、ヒュー・オブ・グルネー、ウォルター・ギファード、ロジェ・オブ・モルティメールおよびウィリアム・ド・ワレンヌに率いられたノルマン領主連合軍がそれぞれの領地からオド伯とライナルト伯による侵攻を防衛するため進発した。
フランス軍はノルマンディー領で、乱暴狼藉の略奪行為のため広く散在しており、ウー伯爵ロベールのノルマンディー軍の(各個撃破の)恰好の標的となった。
熾烈な戦闘が長時間続いたが、フランス軍には多大な損失が残った。ポンテュー伯爵ガイは戦いの過程で捕虜となった。
戦いの報せが川の向こう側、ウィリアム公爵との戦闘に備えていたフランス王に届いたとき、アンリ王は落胆して撤退した。
反乱を起こしたノルマン人領主たちは1052年から1054年にかけての敗北ののち追放され、ポンテュー伯のノルマンディーの領地は没収され、ポンテュー伯ガイは二年間の虜囚生活の後、ウィリアム公爵に忠誠を誓った。