セント-アンドリューズ司教となったロジャーは三代レスター伯爵ロバート・ド・ボーモンの子である。
彼はレスター伯爵の弟であり、その意味するところは自身の将来を何かほかの場所に見出さなければならないという事であり、実際彼は教会の中にそれを見出した。
ロジャーはスコットランド王ウィリアム一世の再従兄弟であり、それぞれエリザベス・ド・ヴェルマンドワ(フランス王の姪であり、初代レスター伯爵ロバート・ド・ボーモンの妻でのちにサリー伯爵ウィリアム・ド・ワレンヌと再婚。その子孫はスコットランド王を輩出する)の曽孫および孫にあたる。
ウィリアム一世の宮廷でロジャーは君寵を得、ついにはスコットランド大法官の地位に就いた。その地位は通常、高位司教へ就任する前段階のものとされていた。
1189年4月パースにて、彼はセント-アンドリューズ司教に選出されることとなった。
(選出されたものの)ロジャーは、最終的に1198年セント-アンドリューズでマリー司教とアバディーン司教により聖別(聖職者として叙任されること)されるまでさらに九年間待たなければならなかった。
大法官を務めた間、ロジャーは、ファレーズ協定(イングランドの内乱に乗じて侵攻したスコットランド王ウィリアム一世が、戦いに敗れて捕えられた。ウィリアム一世は、イングランド王ヘンリー二世との間にスコットランドのイングランド属国化を含む条約を結ばされた。)の無効化に関する交渉の担当者であり、また、ニーダロスとヨーク双方の優越権の主張からスコットランド教会の独立性を守るため、法王への働きかけを行っていた。
この求めは、1188年にクレメンス三世が発行した、スコットランド教会が聖座に直属することを確認した法王勅書により満たされた。
翌年、ロジャーが司教に選出された八か月後、イングランド王リチャード一世は、ファレーズ協定を無効化し、教会の独立を承認した。
ロジャー司教は、以前の1178年にアーブロース修道院のためにした様に、1200年のインチャフリー修道院の設立特許状にもその名が見える。それは司教座としてセント-アンドリューズ城が最初に建設された、彼の司教在位期間中のことだった。
彼は1202/7/7キャンバスケネスで死去し、セント-アンドリューズに埋葬された。
次代のセント-アンドリューズ司教はウィリアム・ド・マルヴォワザンであった。