初代ウォリック伯爵
ヘンリー・ド・ボーモン

Henry de Beaumont (? - 1119/6/20) , 1st Earl of Warwick

ヘンリーはボーモン・ル・ロジェ卿ロジェ・ド・ボーモンの次子である。

ボーモン家系図3

ヌーブール卿

彼は、父の領地の中心であるリスル川のボーモン・ル・ロジェから北東へ12km、ノルマンディー中心部のル・ヌーバーグのささやかな領地を相続した。

この領地名から、彼とその子孫の姓となる”ド・ヌーブール(de Neubourg)”(新しい町=New borough/townを意味する)の名が採られた。

経歴

ノルマン人修道士で歴史家のオーデリック・ヴィタリスが述べるところによると、ヘンリーがウォリック城を保有していたのは1068年に征服王とともにミッドランドで軍事行動を行っていたころである、としているが、後の文献にはこれを裏付ける証拠は存在しない。

実際には、ヘンリーの1088年以前の経歴はほとんど知られていない。

しかしながら、1081年の征服王とその長子ロベール短袴公の和解において、彼は指導的な役割を演じ、また、征服王から厚い信頼を寄せられるようになった。

ウォリック伯爵位創設

1088年には、反逆したダーラム司教ウィリアム・ド・サン-カレーの逮捕と審判において、彼は国王の代理人を務めた。

やがて1088年、その年の反乱鎮圧の協力への褒賞としてウィリアム二世王により、ヘンリーはウォリック伯爵に叙爵されると、彼はイングランドにおいて広大な所領を獲得するに至った。

その伯爵領はいくつかの異なる起源を有するものを併合した領地だった。大部分はウォリックシャーの土地から、その他の部分は1086年のドームズディ・ブックで彼の兄ムーラン伯爵ロバートの領地として記録されていたものだった。

また、ラトランドの広大な王室領や、後にサットン・コールドフィールドとなるサットンの王室森林が、ヘンリーに与えられた。

彼の伯爵領の複雑な配置は前例がなく、これは彼の父と兄、それに国王それぞれからの授与の結果に違いないと考えられる。

ヘンリー一世の支持者

ヘンリー伯爵は、ウィリアム二世の後継者となったヘンリー一世王の部下であり、同時に友人でもあった。

そして、1100年、ウィリアム二世王の突然の死により、その後継者を選出するため参集した領主たちの間で採決が採られた際、ヘンリー王が選出されたのは主に彼の助言によるところが大きかった。

翌年、多くの領主が公然と、または密かに、不忠にもロベール公爵の王権取得を支持した際、彼と彼の兄は国王に忠誠を捧げる側に立った。

ガウアー領の取得

1107年頃、ヘンリー伯爵は、ヘンリー王の覚えめでたいことからウェールズのガウアーの領地を得た。

そして、1113年にウェールズ人の攻撃を撃退することとなるスウォンジーの城を築く。

さらに彼は、グラモーガンの南西に位置するガウアー半島も手に入れた。

ヘンリーまたは彼の部下たちは、1120年にペンリス、スランリディアン、スウォンジーに築城し、さらに加えてオイスターマウス、ラファーにも築城したが後者については盛り土と天守のみが残っている。

結婚と子孫

ヘンリーは、1100年よりも前にジョフリー二世・オブ・ペルシュの娘マーガレットと結婚し、以下の子をなした。

ボーモン家系図6

最期

ヘンリー伯爵は生前にサン-ピエール-ド-プレオー修道院に入り、1119/6/20、修道士として死去した。修道院は長く廃墟となっていたが、参事会堂内の彼の墓の、彼ら兄弟と父の姿が彫られた18世紀の木版画は現存している。

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