ペンブルック伯爵
リチャード・ド・クレア

Richard "Strongbow" de Clare, 2nd Earl of Pembroke , Lord of Leinster, Justiciar of Ireland

リチャードは初代ペンブルック伯爵ギルバート・ド・クレアとイザベル・ド・ボーモンの間の子として誕生。

リチャードの父は1148年、彼が18歳の頃に死去し、”ストリギル伯爵”ペンブルック伯爵の爵位は彼が相続した。

ただしリチャードの父ギルバートはヘンリー王の母マティルダ女王と敵対するスティーブン王の側についていたため1154年ヘンリー二世王が即位した時点ではおそらく承認されていなかった。

リチャードは実際、現在チェプストーと呼ばれるモンマスシャーのワイ川沿いにあった要塞であるストリギルの辺境(マーチャー)領主権を保有していたため、同時代の人々からはストリギル伯爵と呼ばれていた。

彼は1168年にレンスターの追放された王ダーモット・マクモローと出会った際、自らの不運を逆転する機会を見出した。

1167年にダーモット・マクモローはアイルランド上王ロデリック・オコーナーによりレンスター王国から追放された。 1152年にマクモローがブラスナ王ティアナン・オロークの妻ドーヴァルを誘拐したことが追放の原因であった。

王位回復のため、マクモローはイングランド王ヘンリー二世に助けを求めた。追放王は1166/8/1バラニー付近からブリストルへ向けて船出した。

マクモローは1166年の秋にアキテーヌでヘンリー王に会見したが、この時ヘンリー王はマクモローを支援することができ ず、代わりにマクモローを支持する念書を与えた。

しかしながらウェールズへ戻ったマクモローは軍勢を組織することはできなかった。マクモローは最終的に”強弓”ストリギル伯爵とその他ウェールズ辺境領主達と会見した。

追放王はド・クレアと以下の合意を行った。翌春のド・クレアの軍事的支援に対しド・クレアはマクモローの長女イーファと結婚しレンスターの王位継承権を得る。

ヘンリー王がマクモローに与えた承諾は一般的なものであったため、ストリギル伯爵はそれがアイルランド遠征についてヘンリー王が慎重に行った特別な許可であると考えた。 彼が得た許可はマクモローがレンスターの王位を回復することに貢献した。

ウェールズ弓兵をふくむ大軍が編成された。それはレイモンド・フィッツジェラード(レイモンド・ル・グロとしても知られる)により率いられ、1169年から1170年にかけて立て続けにウェックスフォード、ウォーターフォード、ダブリンらオストマン(アイルランドに入植したデーン人)の都市を奪取した。

ド・クレアは最初の侵攻軍には加わららず、1170年の8月になってやっと遅れて到着した。

1171年5月、ダーモット・マクモローが死去し、その子ドーネル・マクモロー-カマナがブレホン法に基づく彼の権利によりレンスターの王位を請求した。ストリギル伯爵もまた妻の権利による王権の請求を行った。

先王の死は蜂起の合図となったが、リチャードはダブリンを離れロデリック・オコーナーを追跡した。

この時、”強弓”リチャードはヘンリー二世王への使節として彼の叔父ハーヴェイ・ド・モンモランシーを送っていた。 これはリチャードの勢力拡大に反感を抱き始めたヘンリー王をなだめる必要があったためだった。

帰還したド・モンモランシーは以下の王の言葉を持ち帰った。即ち、フランス、イングランドそしてウェールズにおけるリチャードの所領を返還し、アイルランドにおけるリチャードの所領も同様にその所有に任せる。見返りとしてド・クレアはダブリンとウォーターフォードおよびその他の城塞をイングランド王へ明け渡した。

ヘンリー王の介入は成功し、アイルランド南部および東部のゲール人(アイルランド地元民)とイングランド人領主達はヘンリー王の支配を受け入れた。

”強弓”リチャードはフランスでの戦争においてヘンリー二世王を支援することについても同意した。

リチャードは名前不詳の女性との間に以下の子をなした。

1171/8/26頃ウォーターフォードにてリチャードはマクモローの娘イーファ・マクモローと結婚し、以下の三人の子をなした。 ヘンリー二世はウィリアム・マーシャル卿にイザベル・ド・クレアと結婚させることを約束した。その子獅子心王リチャード一世は即位の一月後、その約束を引き継いで実行し、ウィリアム・マーシャルとイザベルは結婚した。 ペンブルック伯爵位はイザベルの夫君としてウィリアム・マーシャルに与えられた。ウィリアム・マーシャルはジョン・ザ・マーシャルとソールズベリー伯爵パトリックの妹シビルとの間の子であった。 ”強弓”リチャードの未亡人イーファは健在であり、その名が最後に記録されたのは1188年の勅書のものである。

アイルランド侵攻において”強弓”リチャードは政治家であり、レイモンドは兵士であった。

ジェラード・オブ・ウェールズは生き生きとリチャードを描写している。「背が高いブロンドで姿形良く風貌繊細振る舞いは慎み深く低い声の人物であり、評議会の聖人ではなく兵士たちの偶像であった」

彼は最初、ダブリンのキリスト教会大聖堂に埋葬された。その大聖堂の墓は当初リチャードの肖像と主張されていたものだが、1562年に大聖堂の屋根が崩壊した際、リチャードの本来の(肖像付きの)墓は破壊されている。展示されている墓の年代表記は15世紀辺りで正体不明の騎士の紋章を纏っており、別人の地元騎士の墓である。

目撃者ジェラード・オブ・ウェールズによると、リチャードはダブリンのキリスト教会大聖堂の十字架が見える範囲に埋葬されたという。

ほぼ証拠のない伝承では、リチャードが埋葬された地として、ファーンのセント-エイダンス聖堂やウォーターフォードのキリスト教会聖堂、キルケニーのドミニコ修道院などを挙げるものがある。

グロスター聖堂に埋葬された”強弓”については彼の父、ティンターン修道院の”強弓”は1245年に死亡したウォルター(またはアンセルムス)・マーシャルのことである。

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