ノルマンディー公妃グンノールの一族(6)
ド・モルティメール/モーティマー家系

モルティメール/モーティマー家はウェールズ国境地帯のヘレフォードシャーのウィグモア城を根城とする有力な国境領主で、14世紀にはマーチ伯爵の称号を有した。

ド・ワレンヌ家系との関係

モルティメール/モーティマー家の祖となる”司教の息子”ロジェ初代サリー伯爵ウィリアム・ド・ワレンヌの父ラヌルフ・ド・ワレンヌの兄弟であり、ド・ワレンヌ家同様公妃グンノールの姪の子孫とされる(ただし兄弟の両親以前については諸説ある)

ロジェはモルティメールの城主であり、姓はその領地から採られたとされるが、モルティメールを与えられた経緯については諸説ある(モルティメールの戦いの戦功によって与えられたともそれ以前から領有していたとも)

モルティメールの戦い後の捕虜(彼の義父だった)の取り扱いについて忠誠義務違反を問われてノルマンディーから追放され、モルティメール城は甥のウィリアム・ド・ワレンヌに与えられた。

ウェールズ国境領主として

ロジェ・ド・モルティメールの子ラルフ・ド・モルティメールは1075年の伯爵たちの反乱において鎮圧に協力し、ウェールズ国境地帯のウィグモア城を与えられた。 ここからウェールズ国境地帯の国境領主としてウィグモアを中心にイングランドでのモルティメール(英語名でモーティマーに変わっていく)家の発展がはじまる。

ラルフから数えて四代後のラルフはウェールズ王女グラダスを妻に迎え、その子初代ウィグモアのモーティマー男爵となったロジャーはウェールズ大公家の血を引くこととなった。

初代男爵の子のうち、長男でシュロップシャー・スタフォードシャーの州長官を務めたラルフは爵位継承前に急死したため、聖職者の道に進むためオクスフォード大学で学んでいた次男のエドマンドが呼び戻されて二代男爵となった。

エドマンドにはロジャーという弟があり、これはチャークのモーティマー男爵を創設した。

イングランド王家との関係

エドワード二世の側近として台頭したデスペンサー父子がウェールズで勢力を拡大すると二代ウィグモアのモーティマー男爵エドマンドの子のロジャーはこれと衝突し、貴族派に加わって反乱を起こしたが敗れて捕縛され脱獄後フランスへ亡命した。

フランスに逃れたロジャーはエドワード二世に不満を抱く王妃イザベラと接触・共闘し、1326年イングランドへ反攻、エドワード二世を捕らえて廃位し、王妃イザベラを摂政としてエドワード三世を即位させた。ロジャーはイザベラの愛人として権勢を誇りマーチ伯爵位を創設した。

のち1330年エドワード三世による逆クーデーターにより王妃イザベラとともに捕えられ、王妃は助命されたもののロジャーは処刑された。マーチ伯爵位は一旦消滅(領地は没収)となった。

1348年ロジャーの孫のロジャーは男爵位を再興しガーター騎士に叙勲された。さらに1354年マーチ伯爵位を再興し、ドーヴァー城代、五港長官に指名された。

二代伯ロジャーの子で三代マーチ伯爵エドマンドはエドワード三世の子クラレンス公爵ライオネル・オブ・アントワープの娘フィリッパ(唯一の子で女子相続人)と結婚、その子で四代マーチ伯爵ロジャーはリチャード二世の王位継承者に指名された。

しかし1399年にリチャード二世が王位を追われ、モーティマー家の王位請求権は無視されてヘンリー・オブ・ランカスター(ボリンブロク、のちのヘンリー四世)がイングランド王位を簒奪した。

のち、四代マーチ伯爵ロジャー・モーティマーの娘アンがリチャード・オブ・コニスバラ(ヨーク公エドマンド・オブ・ラングレーの次男)と結婚しリチャード・プランタジネット(のちのヨーク公爵で薔薇戦争のヨーク派)を儲けた。薔薇戦争においてヨーク派が主張する王位請求権はこの婚姻によりモーティマー家からヨーク家に移ったものだった(五代マーチ伯エドマンドは後継者を残さずに死去した)

モーティマー家系図
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