ウィグモア卿兼サン-ヴィクトル-エン-コー卿
ラヌルフ・ド・モルティメール

Ranulph I (Ralf, Ralph, Raoul) de Mortimer (1080 - 1104) , Lord of Wigmore and Seigneur of St.Victor-en-Caux

ラヌルフ(またはラルフ、ラウール)はウェールズ国境地帯モントゴメリー領出身の国境領主(マーチャー卿)。

イングランドではヘレフォードシャーのウィグモア卿であり、ノルマンディーではサン-ヴィクトル-エン-コー卿であった。

ラヌルフはウィグモアのモーティマー家の家祖であった。彼はウィリアム・フィッツオズバーンの息子ロジャー・ド・ブルタイユが1075年の伯爵たちの反乱に加担したのち、ウィグモア城を得た。

彼のヘレフォードシャーとシュロップシャーの領地は1086年以前にウィリアム征服王より彼に与えられたものだった。

ウィリアム征服王の死後、イングランド王国とノルマンディー公国は分裂した。

ラヌルフ・オブ・モルティメールは1088年の新王ウィリアム・ルーフスに対する反乱に加担した。

ノルマンディー、イングランド、ウェールズ国境領主たちは団結してヘレフォード、グロスター、ウースターを侵略・征服した。

翌年、反乱は失敗に終わりメーヌからエヴルーにかけてのノルマンディー国境地帯は混乱状態となった。

ウィリアム・ルーフス王はこの機会を利用し、上ノルマンディーの領主たちを買収した。 これらの領主たちの中、ラヌルフはイングランド王を支援する見返りとして買収を受け入れることで領地を守った。

ラヌルフは自城の防衛と、ノルマンディーの新公爵ロベール短袴公に対する攻撃および周辺の敵領に対する略奪によってイングランド王への支援を実行した。

ノルマンディー公とイングランド王がお互いに対してできるだけ有力で影響力のある諸侯からできるだけ多くの支持を得るよう競い合った。

1090年代初頭のノルマンディーとイングランドの間の権力闘争を通じ、ラヌルフは最終的には陣営を乗り換えノルマンディー公に従うこととなった。

1093年のウェールズ国境地帯では、ラヌルフはロジャー・オブ・シュールズベリー伯爵、クリフォード城主ラルフ・トニー、ラドナーのフィリップ・ド・ブロウズが率いるノルマン軍に参加した。

彼らは現在のポウイスであるラドナーシャーの古いウェールズ地域を侵略し、ワイ川とセヴァーン川の間のシンリバイグ王国を略奪した。彼らは現在のランドリンドッドウェルズ近郊のディニィトン、スランビステルとランゴレンの間に位置するメリィネドのシマロンの城々を築いた。

一世紀後、ノルマン人の権威に陰りが見えると、モルティメールの子孫は最終的に1148年のシンリバイグの反乱によりこの地域から追放された。

ラヌルフ・ド・モルティメールは1070年以前にノルマンディーで誕生し、1104年かそれ以降に死亡した。死去した日付は分かっていない。彼は”司教の息子”ロジェとアワイズ夫妻の間に生まれた。

彼の父は、領地であったペイ-ド-ブレイのモルティメールの城と村から名をとってモルティメールを姓とした。モルティメールはしばしばモルテ-メア-シュル-エアウルネまたはエン-ブレイと呼ばれた。

しかし、1054年のモルティメールの戦いの後、ロジェはウィリアム公爵の敵の捕獲に失敗した咎で領地を失いノルマンディーから追放された。(別の記述ではロジェがモルティメールを領有したのはモルティメールの戦いの後、その褒賞としてであり、そのすぐ後に上記の捕虜の問題、それは敵方についていた彼の義父を彼が匿って逃れさせたことの発覚によるものという)

十年後、その領地はモルティメールの親族のラヌルフが領有したことにより一族のものに戻って来た。 彼らは初代サリー伯爵ウィリアム・ド・ワレンヌの縁者でノルマンディー公リシャール一世の公妃グンノールの姉妹の子孫だった。

ラヌルフはミリセントという名の女性と結婚した。彼らには娘アワイズが生まれ、1100年頃までにステファン・オブ・オーマール伯爵と結婚した。

ラヌルフは義理の息子がヘンリー一世に取って代わろうとする企てを支援した(ステファンは征服王ウィリアムの妹の子、甥にあたる)が、ヘンリー王は1135年までにイングランドおよびノルマンディーの双方を支配下に置いた。

ラヌルフの子ヒュー一世・ド・モルティメールは1144年にシマロン城を再建した。ウィグモア城はモーティーマー家の本拠地となった。ラヌルフの孫ヒュー二世(・ド・モーティーマー)はモード・ド・メッシンと結婚した。

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