1047年
ヴァル-エス-デュンヌの戦い

Battle of Val-ès-Dunes

1047年のヴァル-エス-デュンヌの戦いは、ノルマンディー公爵ウィリアムとフランス王アンリ一世の連合軍と、バーガンディ伯レジナルド一世の子ブリヨンヌ伯ガイに率いられたノルマン領主反乱軍との間で行われた会戦である。

この会戦での勝利により、ウィリアム公爵(のちの征服王)は自身の公爵位と公爵領の西半分の支配を確立した。

背景

ウィリアムは、前公爵ロベール一世の七歳の庶子として、1035年に公爵位を継承した。

ウィリアムの親族たち(従兄弟にあたるブリヨンヌ伯ガイ・オブ・バーガンディを含む)は、我こそ公爵たるべしと信じたが、ウィリアムにはフランス王アンリ一世およびその他の有力貴族の支持があった。

1046年、ウィリアムの敵たちがついに戦端を開いた。

コテンテン半島のヴァローニュ近郊での暗殺に失敗したのち、反乱貴族~ガイ・オブ・バーガンディ、ナイジェル・オブ・コテンテン、ラヌルフ・オブ・ベッシン、ラルフ・テスン・オブ・チュルリー、グリモアルド・オブ・プレシス、そしてアイモ・オブ・クルリー~たちがおよそ25000の軍勢で蜂起した。

暗殺から逃れたのちウィリアムは、直接ポワシーのアンリ一世王の宮廷に騎行し、国王の忠実なる臣下に対する反逆は国王自身に対する反逆である、と説得した。

臣下であると同時に同盟者でもあるウィリアム公爵を保護するため、アンリ一世王はおよそ10000の軍勢でノルマンディーへ進軍した。

戦闘

ヴァル-エス-デュンヌの戦いの概略 現在のコントゥヴィル近郊(by Google Earth)

1047年の夏、アンリ一世王の軍勢は、ウィリアム公爵の小規模なノルマン軍勢と、反乱軍領域の中心部カーンの付近で合流した。

会戦の初期段階で、ラルフ・テスンは真に忠誠を置くのはいずれの側であるかを悟った。彼とその軍勢は国王軍側へ寝返り、反乱軍を背後から攻撃しようとした。

翌日、現在のコントゥヴィルの街の近郊のヴァル-エス-デュンヌの平原で戦端が開かれた。

戦いは騎兵同士の一連の攻防が主であった。反乱軍は数に勝っていたが、協調と統制に欠けていた。

アイモ・オブ・クルリーはアンリ王を落馬させたが、王に傷を負わせる前に斃された。

数度の攻防で敗れたのち、反乱軍は分裂・混乱し、西方へ逃走した。

国王軍は近接追撃し何千もの反乱軍を虐殺、残兵を(ルヴィニー南部の)アティス砦とフルーリー-シュル-オルヌの傍のオルヌ川へ追い立てた。

目撃者の記録するところでは、オルヌ川を渡ろうとした反乱軍騎士の死体は夥しい数に上り、膨れ上がった死体が”一纏めに”下流に流されると、バービリオンの水車が堰き止められてしまった。

その後

国王軍が反乱軍の大部分を西へ追い立てた一方、ガイ・オブ・バーガンディとその残党は東部の自領へ逃れ、ブリヨンヌ城に籠城した。

厳しい包囲を敷いたにも関わらず、ウィリアム公は1050年までこの城を降伏させることが出来なかった。そしてその間、ブリヨンヌより東に広がる公爵領の三分の一の領域を支配下に置くことが出来なかった。

ヴァルエスデュンヌの戦いののち、いまだノルマン人貴族層にはウィリアムに敵対する者たちが在ったが、彼らも1047年10月にカーンにおいて”神の休戦”の宣言を強いられた。この教会の全面的な支持による休戦は、水曜の夜から月曜の朝まで私闘や報復を禁じていた。

その休戦により、ウィリアムは地位の保全と公の秩序を得た。

ウィリアムの地位は依然として弱く、ガイ・オブ・バーガンディはいまだ健在で、敵対領主の多くを赦免しなければならなかった。

これは更に深刻な反乱に直面しなければならなくなる五年前のことであった。

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