クレア卿
リチャード・フィッツギルバート・ド・クレア

Richard fitz Gilbert de Clare (? - 1136/4/15) Lord of Clare

リチャードはノルマン人諸侯の一人でウェールズのマーチャー卿(大陸側での辺境伯に相当し、ウェールズ国境を防衛した)の一人でケントのトンブリッジ小修道院の創設者でもある。

リチャードはギルバート・フィッツリチャード・ド・クレアとアデライザ(アリス)・ド・クレアモントの間の長子である。父の死にあたり、彼はイングランドとウェールズの領地を相続した。

リチャードはヘンリー一世王またはスティーブン王の時代にハートフォード伯爵位を創設したとされることが多いが、当時の彼の死に関する記録も含めて何らかの爵位付きで彼の名に言及しているものはない。一方、土地保有台帳での記載は”ギルバート・フィッツリチャード(※リチャードの父クレア卿)およびその子リチャード、そしてギルバート・フィッツリチャード伯爵(※リチャードの子でハートフォード伯爵ギルバート・フィッツリチャード・ド・クレア)”となっており、ここでも子息ギルバートには”伯爵”付きで記述しているにも関わらずリチャードについては何ら称号の記載がない。地位と財力により彼はイングランドでも屈指の有力者であったが、このように伯爵位の創設については実態が伴っていない架空のものである。

ヘンリー一世王の崩御に続き、ウェールズでの衝突が明らかに増加し反乱が発生した。

リチャードはスティーブン王の強力な支持者であり、王の治世の最初の二年間に発行された全部で29通の勅書に副署していた。彼はスティーブン王とスコットランド王ダビッド一世との条約締結に同行し、1136年のスティーブン王の大復活祭宮廷で家令を務めた。

リチャードはその年の夏のスティーブン王によるエクセター包囲戦、ノルマンディーからの帰還にも付き添った。 この時、スティーブン王の望まざる事であったが、リチャードは明らかにウェールズでの彼の封領拡大を要求した。

1136年の前半、リチャードは領地から離れていた。リチャードはブライアン・フィッツカウントとともにヘレフォード経由でウェールズ国境地帯まで帰ってきたが、彼らが別れる際、リチャードは警告を無視してわずかな手勢でカーディガンへ進んだ。だが彼は遠くまで行くことはできなかった。4/15、リチャードは待ち伏せを受け殺害された。

リチャードを殺害したのはカラドック・アプ・グリュフィドの孫イォルウェルス・アプ・オーワィンとモーガンの兄弟で、アバーガベニの北、スランソニ修道院近くの林道でのことだった。今日ではその場所は”復讐の石”という標が残されている。リチャードは彼の設立したトンブリッジ小修道院に埋葬された。

リチャードの死の報は、グリュフィド・アプ・ケイアンの子でグウィネズ王オーワィン・グウィネズによるリチャード領への侵攻を引き起こした。ウェールズ人はグリュフィド・アプ・プリース・オブ・デハイバースと共闘し、カーディガンのすぐそばのクリグ・マウルの戦いでノルマン人に大勝した。カーディガンの町は占領され焼かれた。

リチャードの未亡人アリスは、ロバート・フィッツマーティンにより防衛に成功していたカーディガン城へ避難した。彼女は救援軍を率いてきたマイルズ・オブ・グロスターにより救助された。

リチャードとアリス(四代チェスター伯爵ラヌルフ・ド・ジャーノンの妹)の夫妻には以下の子があった。

ド・クレア家とギファード家の略系図
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