ハートフォード伯爵
ロジャー・ド・クレア

Roger de Clare (1116 - 1173) , Earl of Hertford

ロジャーはリチャード・フィッツギルバート・ド・クレアとアリス・ド・ジャーノンの子で兄のギルバートが後継者無く死去したのちハートフォード伯爵位を相続した。

1153年、ロジャーは従兄弟であるペンブルック伯爵”強弓”リチャードとともに、スティーブン王がアンジュー伯アンリを自身の後継者として認めたウォリンフォード条約の署名者の中にその名が見られる。彼の署名は1156年のカンタベリーとドーヴァーの勅書の中にもみられる。

パウエルによると、翌年彼はヘンリー二世王から南ウェールズで切り取り勝手の勅許(征服した土地を自分のものとしてよい、とする許し)を与えられた。

これはおそらく彼がこの年(おそらく6/1頃)カーディガン、ハンフリー、アバードベイ、デネア、リースタッドの城を支配することとなったことについてのウェールズ年代記の記述が誇張されたものだろう。

南ウェールズ大公プリース・アプ・グリュフィドはこれらの侵略についてヘンリー二世に抗議した。

しかし、イングランド王からの救済は得られなかったため、甥のエイニョン・アプ・アィアラゥドをハンフリー他のノルマン要塞攻撃へ派遣した。

カンブリア年代記はこれらの事件を1159年のこととしているようで、ブリュ物語(the Brut)ではプリース大公がカーディガンの全てのフランス人の城を焼き討ちしたとの記述が加えれている。

1158年か1160年、ド・クレアはプリース公により包囲されたカーマーゼン城の救援に赴き、ディンワイリーに設営した。 ド・クレアの軍勢はウェールズ公への攻撃ではなく、和平と撤退を提案した。

1163年プリース公は再びド・クレアの征服地に侵攻した。私たちには既知のことだが、ド・クレアはこれ以前のいつかの時点でハンフリー城を占領したエイニョンをウェールズ人の裏切り者を用いて暗殺していた。

1164年ロジャーはクラレンドン法(教会管轄領域への国王裁判権の拡張:「堕落した聖職者」問題)の成立を支援した。

教会に対する気前のよさと数多くの信心深い行いによりロジャーは”ハートフォード善良伯”と呼ばれた。彼は1163年リトル・マーシス女子修道院を設立した。

再びカーディガン全域がノルマン人の手から奪われた。あるウェールズ人の記述によるとプリース公は1164年にヘンリー二世王国王と和平しており、イングランド訪問すらしたが、情勢は緊迫し1165年にはヘンリー王が軍を率いてウェールズへ赴く事態となった。

ウェールズの年代記作者がこの新たな敵意の流行の原因として擬したのは、まずヘンリー王の約束違反、それとクレアの伯爵ロジャーがプリース公の甥エイニョンを暗殺したウォルターを名誉をもって受け入れたことだった。

三度カーディガンは侵略されて焼かれた。カンブリア年代記が1165年とするこの事件はブリュの物語が1163年とするものと同一の事件である。

その間、ロジャーは海峡の向こうにおり、恐らく1160年のクリスマスのものとみられるル・マン、1161年のルーアンでの特許状の署名が見つかっている。

1163年7月彼は(トーマス・)ベケットにより家令としてカンタベリー大司教に敬意を表するためトンブリッジ城に召喚された。ロジャーはトンブリッジ城を大司教からではなく国王から与えられていることに基づいて拒絶し、ヘンリー二世から支持された。

翌年、彼はクラレンドン法の署名者の一人となった。1170年初、ロジャーはケントとサリーほか南部イングランドの顧問団の一人に指名された。彼の既知の最後の署名と思われるものは1171年7月または8月、フランス側シュヴァイユからのものであった。

ロジャーは1173年から、1174年8月に彼の息子リチャードが伯爵として国王のノーサンプトン宮廷に現れるまでの間の時点で死去したとみられる。

ロジャーはジェームズ・ド・セント-ヒラリーの娘モードと結婚し、七人の子を儲けた

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