初代ハートフォード伯爵
ギルバート・フィッツリチャード・ド・クレア

Gilbert FitzRichard de Clare, 1st Earl of Hertford (1115 - 1152), Lord of Clare and 1st Earl of Hertford

クレア卿ギルバートはスティーブン王により初代ハートフォード伯爵に叙爵されたノルマン人貴族。

ギルバートはリチャード・フィッツギルバート・ド・クレアとアリス(アデライザ)の間の長子として誕生。 母のアリスは三代チェスター伯爵ラヌルフ・ル・メスキの娘で四代チェスター伯爵ラヌルフ・ド・ジャーノンの妹である。

ギルバートは1115年以前の誕生とみられ、1136/4/15、トンブリッジ城を含むクレア荘を父から相続した。

彼は1138年頃おそらく叔父のギルバート・フィッツギルバート・ド・クレアがペンブルック伯爵位を創設したのと同時期にハートフォード伯爵位を創設した。

ギルバートは一時はスティーブン王の支持者であったが、どこかの時点でマチルダ女王に鞍替えしていた。国王がチェスター伯爵ラヌルフ・ド・ジャーノンを捕虜とした際、伯爵は甥のジョフリー(ギルバート?)を身柄開放と善行の保証人とした。

1147年ラヌルフ・ド・ジャーノンは再びスティーブン王に対して反乱を起こした。国王は今度はハートフォード伯ギルバートを包囲して捕え、彼の全ての城が降伏に同意するまで捕虜とした。降伏に同意するとハートフォード伯は解放されたが、しかし彼はその後伯父ラヌルフの反乱に合流した。

ペンブルック伯爵ギルバートはこの時スティーブン王に仕えており、”世襲の権利により管理するため”甥ギルバートの城々を要求した。スティーブン王がこれを拒否するとペンブルック伯ギルバートもラヌルフの反乱に合流した。 スティーブン王は同様にペンブルック伯の城も没収した。しかしながら、すぐのちに国王は両ギルバートと和解し、ラヌルフ・ド・ジャーノンはヘンリー・オブ・アンジュ(のちのヘンリー二世王)に合流した。

ギルバートは未婚で子を残さぬまま1152年に死去し、クレア修道院に埋葬された。伯爵位は弟のロジャー・ド・クレアにより相続された。

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