ブロワ伯爵
オド二世

Odo II (935 - 1037/11/15) , Count of Blois

オド二世は、ブロワ、シャルトル、シャトーダン、ボーベの伯爵であり、1004年以降のトゥール伯爵、1022年以降のトロワ伯爵(のちのシャンパーニュ伯爵)、モー伯爵を兼ねた。

オドは二度に渡り、王位請求を試みた。最初は1024年のイタリアにおいて、二度目は1032年ブルゴーニュにおいて。

オド二世は、オド一世・オブ・ブロワとベルタ・オブ・バーガンディの間の子。

彼は、ブロワとシャンパーニュが一つの権威の下に結び付いた始まりであったが、彼の人生は飽くなき領土的野心により、近隣領主や主君との終わりなき戦争に費やされた。

1003年か1004年頃、彼はノルマンディー公爵リシャール一世の娘モードと結婚した。

1005年に彼女が子供を儲けずに死去した後、ノルマンディー公爵リシャール二世は彼女の持参金であるドルー伯爵領の半分の返還を要求した。

オドはこの要求を拒否し、両者の間で争いとなった。

最終的に、オドの母と結婚していたフランス王ロベール二世が、1007年紛争当事者に調停を下し、ドルー城はオドの保有とし、他方、残りの領土についてはリシャール二世の保有とした。

オドは早速、ギョーム四世・オブ・オーベルニュの娘エルメンガードと二度目の結婚をした。

1016年7月のポンルボイの戦いにおいて、アンジュー伯フルク・ネッラとメーヌ伯エルベール一世に敗れた後、彼は時を置かずにトゥレーヌを侵略しようとした。

彼の従兄弟トロワ伯爵ステファン一世が1019/20年に継承者を残さず死去すると、オドは国王の勅許も受けずにトロワ、モー、シャンパーニュ全域を押収し我がものとした。

オドはその新領土から、ランス大司教エバリュ、ロレーヌ公爵セオドリック一世を攻撃した。

国王と皇帝ハインリヒ二世の協定により、オドはランスの大司教領の放棄と大司教への明け渡しを強制された。

オドはロンバルディアの領主達からイタリア王位を提案されたが、その提案はすぐにフランス王との関係を悪化させる恐れから撤回された。

1032年、オドはルドルフォ三世が死去するとブルゴーニュ王国へ侵略を開始した。 だが、皇帝コンラート二世とフランス新王アンリ一世の連合軍に直面し、撤退した。

オドはロレーヌの他の場所を攻撃中、バー-ル-デュック付近の戦闘で死亡した。

二人目の妻エルメンガード・オブ・オーベルニュとの間に三人の子を儲けた。

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