アンジュー伯爵
フルク三世

Fulk III "the black/Nerra", Count of Anjou

”黒伯”と呼ばれたフルク三世は、中世初期のアンジュー伯爵であり、最初の大築城者の一人である。

彼は970年から1040年まで生存し、現代フランスのロアール渓谷一帯に推定で100もの城と修道院を築き、ブルターニュ、ブロワ、ポワトゥー、アキテーヌといった近隣諸侯と絶え間なく戦争し、そして一生の間に四度に渡りエルサレムへ巡礼した。

彼には二人の妻と三人の子があった。

フルクは馬術の達人であり、敵対者の殆どから優位を得る鋭い軍事戦略の天性を持つ恐ろしい戦士でもあった。

彼は、当時の衰退するカロリング王朝に対してカペー朝支配を目指し、目的のために同盟を行った。

アンジューにおける彼の伯爵位にとって難敵となった近隣諸侯は、ロワール川沿いに東へ128km、トゥールのオド二世・オブ・ブロワであった。

両者は生涯を通し、都邑と臣下と恥辱を交換し合った。

フルクは992年、アンジューの東104kmロアール河畔のランジェに最初の城を築いた。

彼の建築の多くのものと同様、その城は木造の塔として着工され、最終的には石造のものに置き換えられ、外壁と、フランス語でドンジョン(天守閣)と呼ばれる肉厚の塔により要塞化された。(ドンジョンdonjonは英語のダンジョンdungeonの語源だが、こちらは塔よりも地下室を指して使われる)

フルクはその城(ランジェ城)を、ブロワ伯オド一世の領域に建設し、994年にその城で戦闘を行った。

しかし、オド一世は急病で突然死したため、その子で継承者のオド二世はフルクを撃退することが出来なかった。

フルクはトゥールをゆっくりと包囲してゆく過程でより多くの塔を建設し続けた。モンバゾンン、モンレゾー、ミルボー、モントリシャール、ロシュ、そして1016年にトゥールからロアール川に架かったモンバイヨーの塔など。

アンジュー伯フルク三世の城

彼はまた、アンジュー、アンボワーズ、シャトー-ゴンティエ、チノン、マイエンヌ、サンブランセ、その他多くを要塞化した。

”支配者の権力拡大のための城の建設は、フルク・ネラの戦略の一部であった”ピーター・フレイザー・ポートンは『中世包囲戦の歴史』の中でその様に記述した。

フルクはまた、熱心なクリスチャンであり、ボーリュー-レ-ロシュ、サン-フロロン-ル-ヴィエイユ、サントーバンの各修道院や、アンジューのロンセレーのノートル-ダム-デ-ラ-シャリテ女子修道院など、いくつかの修道院と教会施設を建設・拡張し、寄進を行った。

フルクは文盲であったけれども、貧しい学生達に教育を提供するため学校へ資金援助を行った。

彼は四度、エルサレム巡礼を実施した。

フルクは、灰衣伯として知られるジョフロワ一世・オブ・アンジューとアデレード・オブ・ヴェルマンドワの間の子である。

彼には、コナン・オブ・ブリタニーと結婚した姉エルメンガード(960年生)と、弟のジョフロワがいた。また、半弟モーリスが980年に生まれた。

彼は、ブシャール・オブ・ヴァンドーム伯爵の娘エリザベス・ド・ヴァンドームと結婚し、娘を一人儲けた。

エリザベスの死は、サン-フロロンの年代記で回想される:エリザベスはいくばくかの支持者と共にアンジューの砦に立て籠もり、フルク伯に包囲されていた。彼女は高みからの落下で傷つき、姦通罪による火刑に処された。

フルクは1005年頃、ロレーヌ出身の一族のイルデガード・ド・サングーと結婚し、二人の子を儲けた。

フルク・ネッラの最初の勝利は、992年6月のコンクレイユの戦いにおけるブルターニュ公コナン一世からの防衛戦であった。

コナン公の領土的野心は、980年に灰衣伯ジョフロワにより挫かれていたが、七年後の987年、コナン公はフランス王ロベール二世”敬虔王”の戴冠式(ユーグ・カペーがロベールを共治王としてオルレアンで戴冠させた)に参列するフルクの待ち伏せを計画した。

フルクと彼の部下は待ち伏せを打ち破り、その際にコナンの子アランを殺害した。

992年フルクはナントのコナンの城を包囲したが、公はコンクレイユへ脱出した。コナン公は戦死し、フルクは後継者の伯爵が幼少であることを理由に摂政として政権を握った。

フルクとオド二世は領土や提携関係において多くの小競り合いを起こし、やがて1016年7月ポンルヴォワの戦いで大規模戦を起こした。

フルクとごく少数の兵が、オドの背後から攻撃したとき、オドは一万名規模の大軍をフルクのモンバイヨー砦へ向けて南進させていた。

フルクの配下は敗れて後退し、オドは勝利したと考えたのでシェール川へ泳ぎに行った。

フルク支援のための増援が到着し、フルク軍が引き返してきて休息に行ったオドの部下を虐殺した。

数千人が殺害されたと報告されている。

フルクは四度、うち、少なくとも二度は自らの罪の赦しを求めるため、エルサレムへの巡礼に従事した。

1003年、彼はエルサレムへ最初の巡礼の旅を行った。彼の妻エリザベスの死のから数年しか経っていなかったが、旅路は穏やかな時であった。

その旅では現在のスイスのグランドベルナール峠でアルプスを越え、イタリア半島南部バーリから(ローマでの滞在は普通に行われた)聖地へ船出した。その旅は半年に及び、領地を深刻な危機に晒すこととなった。

フルクは1008年、敵の殺害を命じた後、国王により処罰として義務付けられたため二度目の聖地巡礼を行った。

翌年フルクは、三度目と四度目の旅の為に、カリフ・ハーキムによるエルサレムの冒涜から巡礼者を保護する道徳的な責務があると決断し、そして彼の近衛は道中、強盗・暗殺者・奴隷狩りからの安全を提供した。

彼の三度目の旅は1035年、ノルマンディー公ロベール一世と伴に、四度目の巡礼は1038年に実施された。彼は1040年、その旅の帰途メッツにて死去し、ボーリューの彼の修道院の教会に埋葬された。

ジョフロワ・マーテルは1040年から1060年の間のアンジュー伯爵であったが、二度の結婚のいずれからも子供を得ることが出来なかった。

アンジューの称号は、彼の甥(彼の妹エルメンガード-ブランシュの二人の息子)へ渡った。

ジョフロワ三世・ル・バルビュ(髭)は1060年から1098年の間の伯爵。フルク四世・ル・ルシャンは1098年から1109年の間の伯爵であった。

ル・ルシャンの孫ジョフロワ・プランタジネットはイングランド王の継承者マチルダと結婚し、イングランドのプランタジネット王家となった。

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