ノルマンディー公妃グンノールの一族(2)
クレポー家系

アルファスト・ド・クレポー

グンノール公妃の男兄弟として唯一知られている人物アルファスト・ド・クレポーについては、フランス王ロベール二世の主導で行われた異端裁判によって僅かに知られるのみである。アルファストは当時新興の宗派の弾劾を支援するため、入信を偽装したとの証言を行っていた。

アルファストには少なくとも二人の男子があった。一人は次項で記述するオズバーンであり、もう一人は勅許状に名前が見られるラヌルフである。後者については名前以外の詳細は不明である。

オズバーン家令

アルファストの子で後世に名を残したのは、ノルマンディー公爵ロベール一世および次のギョーム二世(征服王ウィリアム一世)の代に家令を務めたオズバーン・ド・クレポーである。

オズバーンはギョーム二世幼少時の側近グループの一人であり法的保護者となった。オズバーンはイヴリー伯ロドルフ(リシャール一世の母スプロータとエスパレンの子)の娘エマと結婚した。その間に生まれた子が初代ヘレフォード伯爵となるウィリアム・フィッツオズバーン、およびエクセター司教となるオズバーン・フィッツオズバーンである。

オズバーン家令は暗殺者(伯母の孫にあたるウィリアム・オブ・モンゴメリー)から幼い公爵を護って殺害された。

ウィリアム・フィッツオズバーンと息子たち

オズバーン家令の子ウィリアム・フィッツオズバーンはギョーム二世(ウィリアム一世)の腹心としてイングランド侵攻とそれに続く征服事業に大きな役割を果たし、ウェールズ国境防衛の任を与えられ征服王朝下で最初に創設された伯爵位の一つヘレフォード伯爵位に叙爵された。

ウィリアムはコンシュ卿ロジャー一世・ド・トニーの娘アデライザと結婚し、ド・トニー家系(伝承では最初のノルマンディー公ロロの叔父の末裔という)と関係を結ぶ。

晩年フランドル伯の地位をかけて1071年カッセルの戦いに挑むも敗れて戦死した。 ノルマンディー領内の遺領はブルタイユ修道院長ウィリアムが継承、イングランド内の遺領は二代ヘレフォード伯爵となったロジャーが継承した。

娘のエマは初代ノーフォーク伯爵となったラルフ・ド・ゲールに嫁いだがこの結婚は国王に承認されず、それを不服としたロジャー伯・ラルフ伯にノーサンプトン伯爵ワルセオフが加わり、1075年いわゆる”伯爵たちの反乱”を起こす。反乱に敗れた後、ラルフ伯とエマはブルターニュに亡命する。

ロジャー伯は後に赦されたが爵位・領地は没収された。二人の男子ロジャーとレジナルドがありいずれもイングランド外の領主の娘と結婚、妻の家系の姓に改めている。


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