二代ヘレフォード伯爵ロジャー・ド・ブルタイユ

Roger de Breteuil, 2nd Earl of Hereford (1051 - 1087)

1071年にウィリアム・フィッツオズバーンのヘレフォード伯爵位とイングランドの所領を相続した。

ロジャー伯はウィリアム征服王と良好な関係を保つことができず、1075年には国王の禁止に背いて有名な”ノリッジの婚礼”で妹のエマとノーフォーク伯爵ラルフ・ド・ゲールを結婚させた。

伯爵たちの反乱

その結婚の直後にロジャー伯とラルフ伯(およびサクソン人のノーサンブリア伯ワルセオフ)は反乱を起こした。西部から軍を呼び寄せノーフォーク伯の軍と合流させようとしたロジャー伯は、彼に敵対するイングランド人のウースター司教ウルフスタンやウォルター・ド・レーシー他のノルマン人(ウースターシャーの州長官アーソー・ダベトやエヴェンシャム修道院長アセルウィグら)に率いられて出陣したウースターシャーの民兵によりセヴァーン川で食い止められた。

審判、宣告、一時救済

反乱軍は崩壊し、ロジャー伯は1075年王会前に伯爵位と領地を没収され、終身刑を宣告された。1087年にウィリアム王の死去による恩赦で他の政治犯と共に解放された。

家族

ロジャー伯には下記二人の息子があった。どちらも1087年にロジャーが釈放されてから生まれた子供と考えられる。

ロジャー(サヴォイ地方の領地を相続しジュネーブ伯爵の娘の一人と結婚、カンディア家の家長となった。姓をド・カンディアに改め、カンディア城と北イタリアの領地に子孫を残した)

レジナルド(アムラン・ド・バルーン・オブ・アバーガベニーの娘エメリンと結婚し妻の姓に改めた。レジナルドは1166年までに死去し、子孫はマッチマルクルの領主/城主となった)

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