ロベール二世・ド・グランメニルは有力な家系のノルマン人貴族。 修道士からノルマンディーのサン-テブルー修道院長となり、のちシチリア王国のトロイーナ司教となる。
ロベールはロベール一世・ド・グランメニルとエショフール卿ジロワの娘アワイズ・ダショフールとの間の子である。 彼の一族グランメニル家はサン-ピエール-シュル-ディーヴ小郡のリジウー近郊カルヴァドス出身であった。
子供の頃彼は学問に専念して博覧強記で知られるようになり教会入りが運命付けられている様だった。 しかしロベールは武器と戦闘も愛しており、五年間にわたってウィリアム公爵に従騎士として仕え、ついに騎士として叙任された。
1040年ロベール一世が死去し、ロベール二世を含む三人の息子は父の遺産を分割相続した。
1050年ロベールと兄のヒュー・ド・グランメニルは僧院の設立を決意し、伯父のウィリアム・フィッツジロワに助言を乞うた。 ウィリアムは二人が選んだ場所は不適切であると指摘し、代わりに古代のサン-テブルー修道院を復興させてはどうかと助言した。
兄弟は同意し、その古い廃墟を所有するベックの修道士に補償を行い、母の実家フィッツジロワ家の支援も受けながら修道院を復興させた。
ウィリアム公爵はサン-テブルー修道院復興の特許状で誓いと伴に、何人もこの修道院とそれに属する者たちに危害を加えたり破門することを許さないとの警告を加えた。同年、ロベールは修道士として修道院に加わり、1059年に修道院長となった。
1059年頃ウィリアム公爵配下の領主間、具体的にはジロワ家(グランメニル兄弟の母の実家エショフール卿フィッツジロワ家)とメイベル・ド・ベレーム(フィッツジロワ家の主筋)の間で争いがあった。
一例として、メイベル・ド・ベレームとその夫ロジャーは、ウィリアム公爵がアーノルド・ダショフール(グランメニル兄弟の叔父)の領地を押収して彼女に与えようとしていると確信していた(その様な陰謀が進行していた、ということか)。
この騒ぎに巻き込まれヒュー・ド・グランメニルの領地も突然取り上げられてしまった。同時にサン-テブルー修道院長のロベール・ド・グランメニルは尋問を受けるため公爵の御前に召喚された。一連の事件が陰謀であり、彼を陥れようとしている公爵の意図に気づいたロベールはリジウー司教ヒューに相談した。司教は公爵の不興を避け、自身の身の安全のためにもノルマンディーから脱出するべき、と助言した。
ウィリアム公爵はロバートの地位であったサン-テブルー修道院長にルーアンの聖三位一体教会のオズバーン修道士を送り込んだ。
ロベールは教皇ニコラス二世に窮状を訴えるためイタリアへ赴いた。ノルマンディーでの彼の地位が虚偽の告発により理不尽なことになっている状況と教会裁判が全く行われなかったことを説明し、教皇の助けを求めた。
ニコラスは求めを受け入れ、二人の枢機卿とともにロベールの地位の回復とオズバーンを侵略者として罰するための教皇の手紙を持たせてロベールをノルマンディーへ送り返した。
ロベールの帰還および教皇の介入の件を聞くとウィリアム公爵は激怒し、教皇の使節団を受け入れる”しかし、もし誰か修道士がロベールを告発したなら、奴は恥ずかしくて近くの森のもっとも高い木で首をくくりたくなるだろう!”と述べた。
ヒュー司教はロベールにノルマンディーへ入国しない様警告し、ロベールは親族のヒューが修道院長を務めるパリ近郊のサン=ドニ修道院に滞在した。
ロベールはサン-テブルーのオズバーン修道院長に二人ともにシャルトルの枢機卿の御前に出頭して裁きを受けるべしと召喚した。オズバーンは(一旦は)承諾したものの、指定された時と場所に現れなかった。
ロベールはオズバーンに教皇の名による破門状を送り付けた。サンテブルーの修道士たちはオズバーンが侵奪者との判決されたうえ破門されたとの知らせを受け、彼らの正当な修道院長であるロベールに合流すべく去って行った。旅をするのに若過ぎたり老い過ぎたりしたものは後に残った。
ロベールは1061年にふたたびイタリアへ亡命した。彼は総計11名の修道士をサン-テブルー修道院から連れて来ており、彼らは皆教皇アレクサンドル二世に歓迎された。
11世紀のノルマンディーは古典音楽の歴史上重要な発展のあった地域であり、フェカン修道院とサン-テブルー修道院は音楽の創出と教育の中心地であった。
サン-テブルーでは特に声楽の分野で伝統があり、その合唱団はノルマンディーでも名声を博した。
ロベールらサン-テブルー修道院出身の修道士が教皇やイタリアの諸侯に歓迎された理由としてこの様な事情があったかもしれない。
アレクサンドル二世はその当時、丁度ニコラス二世から教皇位を継承したばかりで、のちに彼らのノルマンディーでの件を聞き、ロベールとその修道士たちにローマの使徒聖パウロ教会を一時利用のため提供した。
ロベールはより安定した基盤を得るため従弟で教皇に仕えるウィリアム・ド・モントルイユの助けを借り、アレクサンドル二世からアキノの町の半分の所領を与えられた。
彼はまたカプア大公リシャール一世・オブ・カプアにも支援を求めたが、大公はロベールに対して多くの空約束をし、のちにそれが判明した。ロベールはうんざりしてカラブリア公爵ロベルト・ギスカールに乗り換え、公爵は彼を丁重に扱い、ロベールとその修道士たちをカラブリアへ招いた。
1061年から翌年にかけてロベールはカラブリアにサンテユーフェミア・ラメーツィア修道院を設立し、また、1062年ギスカール公爵はロベールにベノザ修道院も与えた。
1080年公爵はミレートのサンテミカエル教会を与えた。同年アプーリア公爵ロジャー一世がロベールをトロイーナ司教に選出した。ロベールは1082/11/21に死去し、彼が建設した聖母サンタマリー教会に埋葬された。
ロベールはグランメニル一族の一人であり、母の実家で、敵対するド・ベレーム家の家臣であるエショフールとモントルイユ-ラルジエのジロワ家と密接な関係があることが知られていた。
ロベールの母はモントライユでロベールの妹二人と共に尼僧となることを諦め、最終的には彼の兄ヒュー・ド・グランメニルがその機会を提供した。
兄のヒューはノルマンディーの領地をロベールに任せウィリアム征服王に同行してヘイスティングスの戦いに同行していき、のちにレスターの州長官となった。そして67ヶ所の荘園を持ったことが記録されている。
サン-テブルー修道院の修道士であったオーデリック・ヴィタリスはロベールが結婚したことも子供を持ったことも一切記述していない。